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エッセイ・コラム

徳川和子の入内-修学院にて思う

藤原 道夫

 またも修学院離宮の紅葉を見にやってきた。天下無類の紅葉を眺めながら、この離宮を造営した後水尾上皇と徳川家から入内した東福門院のことを思う。

 徳川秀忠の娘としてその時代に生を受けた和子(まさこ)は、14歳になった元和2年(1620)に徳川家の強引な思惑により後水尾天皇の女御として入内する。二人の間はうまくいくわけがないと思われたが、どうしてなかなか円満にいったようで、2皇子5皇女(後の明生天皇を含む)に恵まれた。これは和子の賢明さと明るい性格によるのだろう。また気風の良さでも知られていた。和子は大量の衣装を雁金屋に発注する。徳川家からの注文もあり、雁金屋は大いに潤った。ここから尾形光琳と乾山が出てくる。
 後水尾天皇が最も華やかな姿を現わしたのは、二条城御幸の時であろう。ところが何かにつけ横やりを入れる徳川家のやりように嫌気がさし、天皇は若干33歳で退位して上皇になってしまう。女御和子は東福門院を名乗る。仙洞御所に住まいして85歳まで生き延びた上皇は、文化活動に没頭する。とりわけ別荘の造営に情熱を傾け、東福門院を伴って別荘に適した地を探してしばしば洛北を訪ねた。比叡山の麓、御茶屋山の斜面に思い叶った土地を見つけるや、建物や庭の設計に携わるとともに、一草一木に至るまで自ら選定したといわれる。最大の難工事だった山の斜面に池をうがつ作業も何とか成功し、万治2年(1659)に修学院離宮が完成した。離宮は下、中、上三か所(当初は下と上の二か所)に分散した御茶屋からなり、それぞれが独自の建物と庭園があり、周囲の田畑・山林を含めて総面積は54万5千㎡におよぶ。上皇と東福門院とはしばしばこの山荘を訪れ、遊興を楽しんだ。
 離宮の中で私が最も気に入っているのが中御茶屋にある客殿と呼ばれる建物とその内装。もとは東福門院の奥御対面所として建てられたが、没後ここに移築された。入母屋造り杮葺きの屋根が優雅な姿を見せる。一の間の飾り棚は霞棚とよばれ、名棚として名高い。棚の周りの装飾も優美だ。襖の腰張りに金と群青の菱形つなぎ紋様をあしらっている。ここに陽が射した時の色あいは、言葉ではとうてい表現できない美しさを顕す。将軍家出身の女性によって王朝の雅の粋を尽くした装飾が成しとげられていることを、どのように考えたらよいのだろう。
 上御茶屋の一番高い位置にある隣雲亭からの眺めはまさに絶景だ。上皇の意図によって作られた浴龍池を見下ろし、近くの鞍馬・貴船など京都市北部の山々を見渡し、遠く京都市街から西山を眺めることができる。瀟洒な造りの隣雲亭は見事な紅葉に取り囲まれている。

 午後4時頃になり、斜め横からさんさんと降り注ぐ西日が紅葉を通して人々を赤く染めているかのよう。天下無類の紅葉狩りとはこのことだ。西日を好んだ御水尾上皇もまた東福門院を伴ってさぞやこのような紅葉を楽しんだことだろう。

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