作品の閲覧

エッセイ・コラム

大丈夫?

西川 武彦

 「こちらの方でよろしかったでしょうか?」と、駅前スーパーのレジの若い女性。年恰好は、二十代の後半といったところか。晩秋の早い夕陽が傾いて、コートなしの83歳の筆者には薄ら寒い時間帯である。
 毎晩欠かせない晩酌のワインの在庫が切れているので、家から歩いて5分余りの駅前のスーパーへ飛び込んだ。土曜の夕方なので、シモキタには若者たちが溢れている。
 エレベーターで地下に下り、ワインコーナーで一本手にすると、再びエレベーターで一階に戻った。税込みで千円ほどのいつもの赤だ。一階と地下は緩い階段で結ばれているが、80歳を過ぎる頃から、エレベーターに頼るようになっているのが情けない。
「今日はこれだけにしておくかな…」と、レジの相手になんとか聴こえる程度の声で呟き、万札を差し出す。
「一万円からで大丈夫でしょうか?」と、首を傾げて見上げるようにレジ嬢。
「うん、それで大丈夫…」。答えながらちょっと違和感が湧いた。いつものことだ。
 短いレジの会話とはいえ、冒頭の「こちらの方でよろしかったでしょうか」も、「…大丈夫でしょうか?」も何かおかしい。一朗が教わって身につけた日本語とは違うのだ。それを使って対応している自分にも呆れた。

 筆者は、当時は日本で一番大きかった航空会社に、23歳で入社した。新入社員は、最初の三年間は、空港のカウンターに配属され、チェックインから手荷物運びを含めた接客の基礎を徹底的に鍛えられた。五十代では教育・訓練を統括する部門のヘッドを務めた男が、80歳過ぎて、「大丈夫」などと返しているのだから、なぜか可笑しい。

 帰り道にあるコンビニに立ち寄り、売れ残って片隅で寂しそうにしている英字新聞を、呆け防止で求めた。細かいコインがないので、レジの女性に千円札を出す。
「こちらからで大丈夫ですか?」と、スーパーのレジと同じ対応が戻ってきた。思わず「大丈夫」と返しそうになるのをぐっと堪え、頬を緩めて首で軽く頷いた。

 買い物を右肩にぶら下げた黒のデイバッグに収めると、そのまま家には戻らず、一日五千歩の日課の残り分を散歩した。辿るのは、毎日少し違うルートだ。途中で知り合いが家の前を掃いていれば、立ち止って一言、二言交わす。半世紀以上の顔見知りだから、会話はざっくばらんで気楽だ。卒業した幼稚園や小学校も、建て替えられたとはいえ、同じ場所に残っている。目標値を超えていることを確認して、ふらふらと家に辿り着く。
「あら、帰ったの?遅かったじゃない。大丈夫?」と、老妻。
「大丈夫」と返す。どうやら我が家も「大丈夫病」に罹っているようだ。(完)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧