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エッセイ・コラム

目に見えるもの(その2)

松浦 俊博

 6年前に「目に見えるもの」を書こう会で紹介した。遠くの景色の写真を撮ろうとしてカメラを覗くとすごく小さく見え、かつピントのあったもの以外はぼやけることに驚いた経験に触れ、目に見える像はカメラの像とはかなり異なることについて書いた。
 網膜の球面スクリーンの機能による現象かもしれないという想像を書いたところ、会が終わってからIさんに「脳が見ているのだよ」と教えていただいた。Iさんは若輩の考えが間違っていても即座に否定せず「こういう考えもある」と言われる。気になりながら放っていたが、暇になったので調べてみた。

 網膜に映る物体の大きさはカメラの像と同様に、物体までの距離にほぼ反比例する。ところが、人間の知覚では物体までの距離が変わっても大きさはあまり変わらない。これは「知覚の恒常性」という環境に適応する能力が人間に備わっているからである。脳が物体の大きさを認識する際には、網膜像の大きさだけではなく、物体までの距離情報も使用する。
 では、物体までの距離はどのように得られるのか。人間の2つの目はわずかに異なる位置にあるため、見ている物体は同一の網膜像にはならない。三角測量の要領で、脳が距離を知覚する。
 当然、遠距離の知覚は難しい。それを示すものに「月の錯視」と呼ばれる現象がある。地平線近くにある月は、天頂にある月より大きく見えるというものだ。地平線近くには距離を示す手がかりが多くあるので、天頂にあるときよりも遠いと認識されるといわれるが、理由はまだ明確になっていない。遠いと認識される結果、地平線付近の月が大きく見える。

 遠近法による絵画は消失点から放射状に広がる直線を利用して表現するので、目に見える像とは異なる。例えばミラノにあるダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は消失点をイエスの顔に設定した遠近法を用いている。イエスに注目を集める効果はある一方、何か違和感を受けるのは私だけだろうか。

 「目に見えるもの」は生(なま)の像ではない。脳の各部位の相互作用により複雑に変換された像である。いわゆる五感も、なにがしか関連しているだろうし、過去の経験などの記憶も影響するのだろう。しかし、誤ったものではない。自然界には固定的な実体は存在しないのだろう。

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