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エッセイ・コラム

飲み倒れの街 江戸・東京 ―居酒屋談義―

浜田 道雄

 大阪は「食い倒れの街」だが、お江戸・東京は「飲み倒れの街」だそうな。  文化8年(1811)江戸町奉行所が「食類商売人」数を調べたところ一番多かったのは居酒屋で、江戸中に1,808軒あったという。当時の人口は概ね100万人だから、553人に1軒の居酒屋があり、しかも結構繁盛していたというから立派だ。(注1)

 しかし、江戸の街づくりがはじまったころから「居酒屋」があったわけではない。江戸開府から20年あまり過ぎた寛永年間にはすでに酒を売る店はあったが、酒は樽売りか量り売りするだけで、店で飲ませることはしなかった。
 それがさらに半世紀ほど過ぎた元禄時代になると、量り売りした酒をそのまま店先で飲ませる処が現れて、なかには田楽など簡単な肴まで出すところもでてきた。この店先での立ち飲みを当時の人は「居酒」(いざけ)と呼んだのだが、「居酒屋」はこの「居酒」だけを商売とする店からはじまったらしい。

 当時江戸の人口の3分の2は男で、その多くは街づくりのために全国から集まった大工、左官などの職人や武家奉公の仲間(ちゅうげん)、商店の手代、丁稚などで、ほとんどが独り者だった。彼らが住む長屋は狭く酒を楽しめるような所ではなかったし、手代や丁稚は店に住み込みだったから、彼らが酒を飲むには酒屋の店先での「居酒」しかなかったのだ。居酒屋はこうした男たちの憩いの場としてはじまり、江戸中に広がった。
 しかし、「居酒」はもっぱら下層市民の楽しみであって、レッキとした武士や表店の商人たちは行かなかったらしい。居酒屋通いはその品性を疑われる下品な行為と思われていたようだ。(注2)

 それからさらに200年、東京の「飲み倒れ」事情はどうだろうか。2016年の「経済センサス」では、東京には19,497軒の「酒場・ビヤホール」(注3)があった。その年の東京都区部の人口は9,375,279人だから、居酒屋は481人に1軒で、江戸時代とほとんど変わらない。東京の「飲み倒れ」は依然健在だ。

 もっとも、当時の江戸と今日の東京都区部の地理的範囲はまったく違うし、また居酒屋の客は都民だけではなく、近県から都内に通うサラリーマンも入るだろうから、こんな単純な比較は成り立たないというご意見もあろう。だが、まあ一応の目安としてはいいのではなかろうか。

 ところで先にも書いたように、江戸時代居酒屋の客は下層市民であって、まともな武士や商人は行かなかった。だが、今日東京の「居酒屋」は“まともな"サラリーマンが酒を楽しむ溜まり場となっている。わがペンクラブも元サラリーマンの集まりだから、会員にも居酒屋ファンは多い。
 しかし、彼らは元大企業のエリート、つまり江戸時代でいえばれっきとしたサムライだ。となると、サラリーマンや元サラリーマンが大きな顔をして居酒屋の常連でいるということは、現代のサムライの品性は江戸の武士よりも落ちたとみるべきだろうか? それとも居酒屋の方が高級化したとでもいうのか?

 私はそのどちらでもないと思っている。
 “日本の居酒屋文化"について何冊もの本を書いているマイク・モラスキーさんは、日本のサラリーマンにとって居酒屋は「第3の場所」なのだという。現代のサラリーマンは家にあっては「家族との場」に属し、職場では「会社組織の一員という場」の中に押し込められている。だが、居酒屋はそのどちらからも距離を置くことができるところで、カミさんからも上司からも自由であり、対等に付きあえる“飲み仲間"だけがいる“本当に"憩える「場所」だというのだ。

 私はモレスキーさんの意見に賛成だ。だが、「会社という場」を離れて何年も過ぎたOBペンの仲間がいまだに「居酒屋」に固執し集うのは、「家族の場」からは未だ離れられない、なんらかの鬱憤があるのかもしれない。

(注1)飯野亮一「居酒屋の誕生」(ちくま学芸文庫 2014)による。
(注2)俳人宝井其角に
   名月に居酒をせんと頬被り
   という句がある。其角にとって、「居酒」は人に見られぬよう顔を隠して出掛けねばならないことだったようだ。
(注3)この分類には焼鳥屋、おでん屋、もつ焼き屋も入っているので、これを「居酒屋」とみなした。

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