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エッセイ・コラム

ムハンマドの髭

浜田 道雄

 イスラームを考えるとき、それを信仰する人々に対して畏敬の念を覚えるとともに、わずかだが疑問に思うこともある。厳格な一神教であるイスラームは神の姿を思わせるいっさいの偶像をもたない。これまでにもタイやマレイジアのマスジット、パキスタンやペルシャ湾岸のモスクをいくつも訪れたことがあるが、そのなかは幾何学模様の装飾に囲まれたホールがあるだけで、神像やそれに類するものはまったくない。しかし僧職にあるものや学者ならいざ知らず、庶民が神に祈るときはたして神の姿を見ずに、あるいは念じずにいられるのだろうか。八百万の神々があふれる国で生まれ育った私にはそれが疑問であり、神の姿を思うことなく祈ることのできる人々がうらやましかったのである。

 十数年ほど前の四月、満開の八重桜に彩られたトルコのイスタンブルを訪れた。この街はアジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる大帝国を築いたオスマン帝国の首都だったところであり、また東洋と西洋を結ぶ貿易と文化交流の拠点であった。この地に残るかつてのスルタンの宮殿はいまはトプカプ宮殿博物館となって、元の染付けでは世界最大のコレクションをもっている。
 この街を訪れることは私の長い間のあこがれであり、陶磁器を見ることを趣味にしていた私には一度は「巡礼」しなければならない“メッカ”でもあった。

 博物館はさすがに三大陸にまたがる大帝国の収集品を集めただけあって、ギリシャ、エジプト、メソポタミアの発掘品や東西交易の素晴らしい成果であふれていた。元の染付けも予想の通り優れたものが多く、見応えのあるものだった。
 だが、一番の収穫はハーレムの入口に近い小部屋に古いコーランの写本などとともに恭しく飾られたイスラームの教祖ムハンマドの髭を見つけたことだった。髭はもちろん礼拝の対象としての展示ではなかったが、その前に立つと人に厳粛な気持ちを起こさせるものだった。
 私はこの教祖の遺品の前に立って、仏像を作りはじめる前の仏教徒が仏舎利や仏足石を拝んで信仰のよすがとしたように、イスラームもまたこの教祖の髭に会うことで神を念じることができたのではなかったかと思った。そしてようやく永年の疑問が解けたと思い、そして安心したのである。

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