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エッセイ・コラム

あかねさす紫野にて

藤原 道夫

 数ある『万葉集』の歌の中でも、次に挙げる歌はとりわけ人気があるようだ。

天皇の蒲生野に遊猟したもふ時、額田王の作る歌
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
 (巻一の二十)

 高校でこの歌を知った際、勝手に次のように解釈した。「若い男女が紫野や標野あたりで遊び、夕焼け空になるころにそれぞれの家に帰ってゆく。男は手を振って別れを惜しむ。女は嬉しく思いながらも、人に見られているではないかとはらはらしている。」
 二年前から『万葉集』に関する市民講座に通い、当時の風習を含めた歌の解釈について学ぶ機会を得た。ついでに上記の歌も見直してみた。分かったのは次のようなこと。

 詠み人額田王は謎につつまれた人だ。この歌を詠んだ時は天智天皇に仕える身で、四十歳位になっていた。仕えるといっても、宮廷歌人か巫女のような立場だったらしい。その前は天皇の弟大海人皇子と結婚して十市皇女をもうけている。宮中春の行事である遊猟(みかり、薬狩ともいう)には、天皇はじめ皇室の人々や群臣がこぞって蒲生野にある標野(しめの)に出かけた。そこは皇室の薬草園で目印が立ててあり、野守がいる。その辺りで男は薬効のある角を得るために鹿狩りをし、女は薬草を摘んだ。ムラサキは当時貴重な染料の原料であるとともに薬草でもあった。薬狩の後には宴会が開かれるのが常だった。その宴席で額田王が詠んだのが件の歌とされる。あかねさすは紫の枕詞、貴重な草ムラサキをひきたてているかのよう。袖振るは求愛の動作。君は元の夫大海人皇子で、次の歌を額田王に返す。

むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
(巻一の二十一)

 何と即妙な称え方だろう。
 このようなことを取りまとめ考えてみると、それぞれの歌は額田王と大海人皇子とが宴会の席で当人同士を指さしながらお互いをからかうように歌った戯れ歌のように思えてくる。宴席はさぞかし盛り上がったであろう。なお他の人が詠んだ歌を二人に帰属させたという説もある。
『万葉集巻一』は宮廷の行事を詠った歌が集められており、男女の恋愛を詠った相聞歌とは趣を異にしていることも注目すべきであろう。
 おおらかに思える歌の背景に複雑な人間模様が秘められていた。この遊猟の四年後に、天智天皇の後継をめぐって壬申の乱がおこる。

 額田王の歌が詠まれた蒲生野を昨年晩秋に訪ねてみた。かねてから行きたいと思っていたところだった。近江八幡から近江鉄道八日市線の二両編成電車に乗って三つ目の駅市辺(いちのべ、滋賀県東近江市)に降り立つ。無人駅ホームの端で「万葉の森船岡山~ようこそ万葉ロマンの舞台に・・・・・・」と書かれたカラフルな看板をみつけた。船岡山はすぐ近くの小高い丘、頂上に登ると額田王らの歌碑があり、かたわらにここが蒲生野であることを説明する看板がたっていた。麓は公園になっていて、薬狩の風景を描いた大きな日本画が飾ってある。鈴鹿山脈西の端と琵琶湖南端の東部とにはさまれたこの地に、今はのどかな田畑の風景がひろがる。
 額田王の歌を高校生の時に感じたように解釈するのは正しくないことは明らかになった。しかしながらイメージとして許される範囲内にあるのではないか、蒲生野を眺めながらそんな思いを強くした。

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