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エッセイ・コラム

サービス過剰?

西川 武彦

 先月のことだが、老朽化が進んだ車と洗面所の給湯器を思い切って買い替えた。愛車は20万kmも故障せずに走ってくれたし、後者もかなり草臥れた旧式だ。

 新車の購入は、平均寿命をこえて今さらいかがなものか、と思われるかもしれないが、生活拠点が二カ所あり、定期的に遠路行き来するので欠かせないのだ。
 分割払いで手に入れた新車は、昔風に鍵を差し込んでドアを開けるのではなく、機能のついた鍵をもってドアに近づくと、車体に触れることなく開錠するので、何度か乗った今でも戸惑っている。
 エンジンは、ブレーキを踏みながら指定された所を指で軽く圧すと始動する。その他、CD・ラジオ等々の音響関係も全く違うからややこしい。機械に弱い筆者は細かい装置を眺めるだけで疲れてしまう。航空機の操縦席を覗いたことがあったが、それに似ていなくもない。出発するまでに疲れてしまう感じだ。
 なんとか動き出すと、高速道の入り口ごとに出入の注意を促される。ナビゲート画面からも絶えずアナウンスが流れてくる。いずれも女性の声だ。煩わしい。サービス過剰である。そこまでサービスするなら、機械化された味わいのない声でなく、その場に応じて、優しい声・恐い声・悩ましい声などが聞こえてくるのはどうだろう。たまには「ウフ~ン、そこはダメ……」なんて甘い声で囁かれれば、眠気が覚めるかもしれないではないか。

 新型の給湯器も同じように声を発する。温度の上げ下げを教えてくれるのだ。
 お湯の温度は、40度になりました、38度になりました…、と髭剃り、洗面、洗髪などで、少しでも温度の上げ下げがある度に、車の場合と同質の女性の声で、柔らかく教えてくれる。味気なく、煩い。なんとかならないだろうか。
 高齢者の認知症を予防するどころか、悪い方に進める可能性があるかもしれない、と偏屈な筆者は違和感を抱いている。サービス過剰なのだ。

 身近な例をもう一件書き加えたい。電車の駅のアナウンスだ。小田急線の立体交差と複々線化工事に伴い、最寄りの下北沢の駅は今年に入って大改造された。それに伴い、井の頭線のプラットフォームや改札なども大きく変貌した。工事はまだ完成してはいないが、ほぼ全貌が現われたといってもよかろう。
 ところが、人の出入りがもっとも激しい東口の改札口がすっきりしていないのだ。どこがどの電車の改札口なのか慣れないと間違えるのだ。両社の設計上の調整不足に起因するのだろうが、端の方では、「ここは小田急線の改札口ではありません云々」と、大きなアナウンスが機械的に絶えず響いているのだ。わが国の空港・駅・停留所などではよくある情景だ。大きな設計に伴う関係者間の調整が上手くないのである。これも一種のサービス過剰かもしれない、とご隠居は呟いている。(完)

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