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エッセイ・コラム

黒パン

三 春

 終戦から平成初期にかけて活躍したロシア関係者には樺太や満州からの引揚者が多いせいか、風変わりを超越した個性派(奇人変人?)が揃っている。そんな人たちの一人に筒井さんがいる。

 筒井さんはフリーの翻訳・通訳者で、時折ふらりと現れては原稿を受け取ったり酒宴に加わったり(この業界では日が落ちれば、いや、日が高いうちから酒盛りは当たり前)という自由気ままな暮らしだ。外見は漫画家兼タレントの蛭子さんそっくりで、どう見てもパッとしない。ぼってりした体型、よれよれの服、象のような細い目をぱちくりさせながら訥々と語る。意外にも三味線の名手で、囲碁も段位を持つほどに強く、その種の催しのあった日はよれよれの和服で登場する。
 「お前さんが真面目に働けばさぞかし……」などと説教するお節介な先輩もいないではないが、当人はお気楽そのものでぬうぼうとしている。独身かと思いきや、稼ぎ頭の前妻には愛想をつかされたものの四十代半ばで再婚、新妻は大学教授だとか。奇跡なんて案外その辺に転がっているものだ。

 ある夏の夕暮れ、小さな紙袋を持って現れた。躊躇いがちに、
「あのぉ……、さっき籤引でこんなの当たっちゃって」
 袋から取り出したのは小さな黒パン。ロシアの黒パンとは違う。アンパンの仲間でもない。黒揚羽の翅のような形の艶やかな小布、いわゆる「バタフライ」と呼ばれるものだ。四隅に紐がついていてこれを結ぶとちょっと色っぽいパンティーに変身する。筒井さんに最も似つかわしくない一品である。町内会の籤引景品にしてはキワドイ代物、本当はキャバクラのお土産じゃないの?
「こんなの持ち帰ったら女房に吊るし上げられそうで……誰か貰ってくれないかなぁ」  女性陣は一様に顔を見合わせる。(よりによって筒井さんから、しかもセクシー下着なんて絶対イヤッ!)という顔だ。そして彼女たちの視線が私に集中しだした。まったくもう!!

 先日、タンスの奥で爆睡中の黒パンを久々に発見、遠い昔を懐かしみつつゴミ箱にポイ。あの筒井さんはいま何処でどうしていることやら。

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