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エッセイ・コラム

東京の「市電」

野瀬 隆平

 東京の市街を走る路面電車がまだ「市電」と呼ばれていた明治40年頃の話である。その市電に乗り合わせた乗客の様子が次のように描写されている。

「けれども案外に、電車の中はすいてゐて、黄色い制服をつけた大尉らしい軍人が一人、片隅に小さくなって兵卒が二人、折革包を膝にした請負師風の男が一人、掛取りらしい商人が三人、女学生が二人、山の手の、他分四ツ谷のらしい婆芸者が一人乗って居るばかりであった。日の光が斜めに窓からさし込むので、それを真面に受けた大尉の横顔には、削らない無精髭が一本々々針のやうに光る。女学生のでこでこした庇髪が赤ちゃけて、油についた塵が、二目と見られぬ程きたならしい。」

 永井荷風の小説『深川の唄』の一節である。さすがは荷風先生、その観察力の鋭さと描写力は中々のものだ。
 主人公(多分、作者本人であろう)が四谷見附から乗った市電は、半蔵門で右に曲がって三宅坂へと向かう。
 その間、「ねんねこで赤子を負つた四十ばかりの醜い女房」、「ベースボールの道具を携えた少年二人」、「十八九の、銀杏返し前垂掛けの女」や「半纏股引の職人」など、雑多な人たちが乗り込んでくる。客の服装と立ち居振る舞いから、当時の風俗を伺い知ることが出来る。また、車窓から眺める街の様子も描かれており、沿線の人たちの暮らし向きが分かる。
 やがて、電車は桜田門を通過し、日比谷を経由して数寄屋橋へと向かうのだが、日比谷の停留所で、電車が完全に止まるのを待ちきれず飛び降りた客が転ぶというハプニングがあった。それに続く件に、こうある。
「無論大した怪我ではないと合点して、車掌は見向きもせず、曲がり角の大役難、後の綱のはづれかゝるのを一生懸命に引直す。」
「曲がり角の大役難」について、蛇足かも知れないが、少々の説明を試みる。
 当時の路面電車は、今日のようにパンタグラフ形式ではなく、電車の屋根から突き出したポールの先にあるトロリーを架線に接触させて、電気を取り入れていた。このトロリーが、特に電車が曲がるときに、架線から外れやすい。それをコントロールして、架線にうまく接触させるのが車掌の大事な役割。窓から半身を車外に乗り出し、のけ反るようにしてポールに繋いである綱で操るのだ。
 ただ、ここで一つひっかかることがある。
 桜田門から日比谷を通って数寄屋橋へは、一直線で「曲がり」が無い筈ではないか。少なくとも現在の道ではそうだ。
 そこで、当時の市街図と市電の路線図を捜しだしてよく見ると、今日の日比谷の交差点のところで道路が鉤型に折れ曲がっている。当然のことながら路面電車の線路もクランク状になっている。疑問は氷解した。「大役難」は確かにあったのである。しかも、続けて二度も。
 この後、電車は銀座を通過して築地の交差点を左に曲がり、本願寺前から茅場町へと向かう。正に現在の地下鉄日比谷線と同じルートである。
 新富町を過ぎたあたりで、それまで順調に走っていた電車が止まったきり動かなくなった。
「坂本公園前に停車すると、それなり如何程待って居ても更に出発する様子はない。後にも先にも電車が止まってゐる。運転手も、車掌も、いつの間にやら何処へか行ってしまった。」のである。乗客の一人が、
「又喰らったんだ。停電にちげえねえ。」と言う。
 停電で電車が止まることがしばしばあったのだろう。しかし、停電が原因なのだろうか少々疑問である。
「後にも先にも電車が止まってゐて」、乗客の一人が、
「やァ、電車の行列だ。先の見えぬほど続いてらァ。」と叫んでいる。
 前の電車も後ろの電車も、数珠つなぎになって止まっているのだ。一定の間隔で運転していた電車が、停電で一斉に止まったのならば、行列ができることはないのではないか。むしろ、先頭の電車が故障して止まったため、後続の電車がつかえて順に動けなくなったと考えるべきではないか。
 どうも理屈っぽくていけない。文学作品のまともな鑑賞方法ではないかも知れない。

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