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エッセイ・コラム

首の皮一枚

三春

 旅先でケータイが鳴った。証券会社からだ。新商品の勧誘かと思いきや、投資中のEB債がノックインしたという。緊急事態発生!

 EB債(他社株転換可能債、Exchangeable Bond)は、ハイリスク・ハイリターンな仕組債の一種である。私は米国ナスダックの数銘柄を対象として投資していた。毎月の判定日にその終値が購入時株価の「80%以上で100%未満」の範囲に収まっていれば年利15~20%(!)の利息、「60%以上で80%未満」ならば0.1%の利息が支払われる。そして購入時株価を上回れば早期償還されて元本が現金で戻る。ところが「購入時の60%未満」(ノックイン価格)になれば、落ち込んだ銘柄の株式ですべてが償還されるので、多大な損害を被る恐れがある。最悪の場合、そこが倒産でもすれば何もかも灰燼に帰す。

 今回は米国の半導体製造会社大手が米中貿易戦争の煽りを食って一気に暴落した。その製品の販売差止めや特許権を巡って米中が係争中だと知ってはいたが、これまで危ない目にも遭わず高利を得てきたので安穏としていた。担当者は数字を挙げてこの一大事を説明するが、旅先の電話では頭に入ってくるわけがない。「旅行中なので帰京してからあらためて」と答えると、この非常時に何を暢気なと言わんばかりに、「えぇっ? 他の銘柄だって明日にもアブナイんですよ……一体いつ帰ってくるんですか」。

 いや、私だって目の前が一瞬暗くなったのだ。チマチマした定期預金など一切やめて、ここを頼りにしていたのだから。帰京して真っ先に説明書を読み直した。
 「自動早期償還条項」とやらによれば、たとえノックインしても満期日に所定の価格以上になっていれば元本全額が現金で償還されるようだ。地獄で仏!
 株価はその後も一進一退で下降と上昇を繰り返しつつ、結局は大きく下落している。それにしても……、首の皮一枚でつながっているくせに、「死にかけている」という実感がどうしても湧いてこない。

 そんなわけで手元の現金が心細くなったので、大昔に買ったワンルームマンションを売却することにした。25年前、本業の収入だけでは子供たちの教育費を賄えず、預貯金が底をつく前に対策を講じる必要があった。時間や手間をかけずに副収入を得るにはマンションを買って賃貸するのが早道だった。今となってはそれも用済みだし、賃貸に伴う煩わしさから解放される格好の機会でもある。それに、いま行動しなければ、私がいなくなった時に「なぜ生前に処分しておいてくれなかったんだ」と、面倒くさがり屋の息子たちが文句を言うに決まっている。
 物件は山手線田町駅から徒歩八分で、「2020東京オリンピック」の直前に完成する新駅「高輪ゲートウェイ」にも近い。築40年になろうとする老朽マンションにとって今以上の売り時はないだろう。
 購入時の不動産屋に連絡した。あの頃は営業担当だった青年が社長となり、社名も今風のカタカナ名前に変わっている。営業マンによれば港区の中古マンション売買は好調で、私の物件と同じマンション内でも2件立て続けに成約したそうだ。買手はいずれも中国の投資家だという。今回もその可能性は少なくない。不動産を外国人に売り渡すことには躊躇いもあるが、世界中の多くの国で外国人の不動産所有を認めているし、地球規模で捉えれば国籍など関係ないとも言える。

 それから2週間足らずでまたケータイが鳴った。
「買いたいというお客様がいらっしゃいます」
「え、もう?」
 早すぎないか、しかも相手は日本人!決済は銀行振込でなく現金でという点がちょっと怪しげ?決済日には用心棒つきで臨むとしよう。あの「高輪ゲートウェイ」の効能だろうか、また首の皮が繋がった。

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