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エッセイ・コラム

尾花沢の「紅花大尽」

池田 隆

「高山森々として一鳥鳴かず木の下闇茂りあひて夜る行がごとし」
 芭蕉が山刀伐(なたぎり)峠を越えたときの「奥の細道」の一節である。彼らは心配した山賊や野獣に出遭うこともなく無事に峠を越え、尾花沢の鈴木清風邸に到着する。
 同じルートを辿り、我々も芭蕉・清風歴史資料館へ。鈴木清風は尾花沢の歴代続く豪商で主に紅花を商い、「紅花大尽」と呼ばれていた。しかも俳人として芭蕉と親交が厚かった。芭蕉は「彼は富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情を知たれば、……、さまざまにもてなし侍る」と記している。当時はこの地域で採れる紅花が全国生産の過半を占め、上方を中心に染料や化粧品に用いられていた。
 芭蕉は尾花沢で十日間を過ごし、「涼しさをわが宿にしてねまるなり」などの句を詠む。館内には芭蕉と清風に因む多数の品々や資料が展示されている。その中で清風に関する伝説逸話がとくに興味深い。
 元禄十一年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは田舎商人と甘く見て不買同盟を結んで価格を下げさせようとした。それに対し彼は多量の紅花を品川沖で焼いて周囲を驚かす。だがそれは偽の紅花でかんな屑だった。値が上がり三万両の利益を得るが、「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る」と、三日三晩吉原を借り切り、遊女達に休養を与えた。
 清風に想いを寄せていた妓楼三浦屋の高尾太夫はこの豪気にますます惚れ込み、お礼として頓阿作の柿本人麻呂木像を渡した。その像は太夫に恋慕する伊達家の殿様より授かった代物である。彼女はやがて伊達家に身請けさせられるが、清風への想いが断ち難かったためであろう、殿様の怒りに触れ殺されてしまう。その死を悼んだ清風は高尾太夫の菩提を弔いたいと自宅近くに念通寺を建立したという。
 館内に展示されている柿本人麻呂像を見ながら、正に「いき」を極めた男と女、二人にしばし思いを馳せた。

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