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エッセイ・コラム

鄙には稀な……

三 春

「鄙には稀な美女」ならぬ蕎麦屋である。
 東京のはずれにしては小洒落た店構え。昔ここにあった蕎麦屋とは名前も外観も違うから別の店だと思っていた。昔は○○屋という至極平凡な蕎麦屋で、子供の頃は家族でよく食べに行ったものだが、ある日、きつねうどんのお揚げの脇でほうれん草を気取っていた巨大青虫を危うく食べそうになって以来、二度と行かなかった。

 ところが最近、これは二代目、つまりあの「青虫」の息子が、有名な老舗蕎麦屋での経験を引っ提げて舞い戻り、小粋な姿に変身してデビューしたものとわかった。
 というのも、立て続けにいくつもの雑誌でこの店の紹介記事を見かけたからだ。九条ねぎをこんもりと盛った牡蠣のつゆ蕎麦の写真に心惹かれた。「ミシュランガイド東京2018」のビブグルマンに選ばれたらしい。なまじ持て囃されると碌なことがないとは思うが、まずはお手並み拝見と、半世紀ぶりに訪れてみる気になった。

 暑さも一段落、雨上がりの黄昏時である。20名足らずで一杯になる小さな店は既に半分近くが埋まっている。白木の大ぶりなカウンターに陣取ってメニューを覗き込めば、ビールはベルギービール、日本酒は墨廼江(すみのえ、宮城)、紀土(キッド、和歌山)、伯楽星(はくらくせい、宮城)、新政(あらまさ、秋田)の生成(エクリュ)やNo.6 S-typeなど、なかなか個性的な品ぞろえだ。本日おすすめの酒が注文されると、派手なメガネのちょい悪オヤジ風が厨房から顔を出し、一升瓶を傾けてとくとくと酒を注いで、常連らしき客と談笑してはまた引っ込む。ははーん、これが青虫の息子だな。
 旬の食材を丁寧に仕込んだ酒肴は多種多様で、豆腐の味噌漬け、レバーのオイル漬け、水ナスと山椒みそ、トウモロコシのかき揚げ、自家製たらこの燻製、秋刀魚のコンフィなどなど。豆腐の味噌漬けは沖縄の豆腐ように似たまったりとした味わい、レバーのオイル漬けは薄桃色で鮮度の良さが際立っている。蕎麦屋であることを忘れてしまいそうだが、肝心の蕎麦は、栃木・埼玉・北海道など産地と品種と畑に拘り、挽き方まで変えた数種類を味わえるばかりか、澄み切った旨みたっぷりのつゆも舌を魅了する。いいねぇ、やるじゃないの!
 この地で生まれ育って数十年、気の利いた店に初めて出逢った。午後7時半、空席なし、覗いては諦める客人たちに場所を譲るとしよう。道すがら空を仰げば上弦の月。

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