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エッセイ・コラム

草いきれ

藤原 道夫

 夏が来ると山に登った時のことを思い出す。山上の展望と清々しい風、お花畑、ガスに見え隠れする山稜、顔を洗った渓流等々。草いきれもその一つ。草いきれとは、広辞苑に「夏、日光に強く照らされた草の茂みから起る、むっとする熱気」とある。私には熱気だけでなく、いかにも野性的なムッとする青臭い匂いが記憶されている。まずは八ヶ岳を四人で縦走した時の思い出から。

 新宿23時55分発普通松本行きは、昭和30年代前後に登山をした人たちにとって思い出深い列車だ。私も何回か利用した。座席以外に通路に寝場所を確保する者、仲間の居る座席の下に潜り込んでいる者、何と網棚に載っている人も見かけた。列車はいつも満員だったが、譲り合う山仲間の連帯感があった。
 四人席が確保できていよいよ出発、うとうととして夜が明ける頃に長野県に入る。「八ヶ岳が見える」という声にあちこちから歓声が上がる。茅野で降り、バスに乗り換えて登山口の温泉場に、午後3時頃に赤岳山頂小屋に着いた。途中足元で鳴る雷に遭ってくわばらくわばら。夜には満天の星を仰ぎ見た。
 次の日順調に歩いて連峰の南端編笠山に達し、八ヶ岳とも別れ。早朝に車窓から眺めた優美な稜線を下る。これが長くてきつい。下りは勢いがつき、誰も休もうと言い出さない。膝ががくがく笑う。やっと休憩になって一息入れた時、ムッとする草いきれに襲われた。汗がどっと出て疲れが全身を覆う。だいぶ下って気温がグーンと上がっていたのだ。歩き続けて4時間余、小淵沢駅に着いた時には朦朧としていたようだ。帰宅してから二日間寝込んでしまった。

 朝日連峰を友人と4日がかりで縦走した時のことも思い出す。天童まで夜行列車、特別に許可されたトラックに乗って麓まで。山道にタムシバの香りが漂っていた。次の日は濃いガスの中をひたすら歩いて稜線の小屋まで。翌朝は快晴に恵まれ、北方に月山、鳥海山、遠くに岩木山まで望めた。いよいよ主峰の大朝日岳に、エーデルワイスを華奢にしたヒナウスユキソウの群落が続く緩やかな山稜を行く。ピラミッド型の山頂で一休み、下山して麓の鉱泉の一軒宿で疲れを癒す。最終日山形行きのバス停まで出る間に、あの草いきれの中をしばし歩いた。鉱泉で洗い流した汗の何倍も出たように感じ、閉口した。

 もう山登りに行くこともなく、草いきれに出遭う機会もなくなった。真夏日に、登山の爽やかな思い出と共に、あの匂いを伴った熱気が今や懐かしく思い起こされる。

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