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エッセイ・コラム

二・二六事件(8) エピローグ

志村 良知

 事件後、秘密軍事裁判で有罪になった決起将校たちは約60名。多くが陸軍士官学校出の連隊将校であった。投降せず自決した2名を除き、19名が死刑。現役軍人は判決7日後、北一輝や村中孝次、磯辺浅一ら民間人、元軍人は1年後に銃殺刑に処された。
 研究者によると彼らとて全員が思想的指導者だったとされる北一輝の天皇親政国家社会主義思想の信奉者の一枚岩ではなく、先鋭的な革命指導者、天皇を純粋に思慕する者、人情万やむなく参加した者、いろいろであった。「青年将校の心は」などと十把一絡げに語る事は出来ないのだという。しかし、自分たちこそ陛下の股肱の臣である、と信じていたのは共通であった。それだけに天皇の心が自分たちに無い、というのは衝撃で、特に磯辺ら決起軍中の革命派にとっては「天皇の裏切り」であった。

 事件の最中に陸相が天皇に直接責任を追及され面罵されたにもかかわらず、事件後の陸軍の政治への介入はさらに激しく露骨になり、一年半で首相と外相が3人づつ交替する不安定な状況を作り出した。そして、若さ、血筋、容貌、進歩性、理想的な家族など、女学生までも含む国民の人気と期待を一身に背負って近衛文麿が登場する。しかし、後世の評価で極右からコミンテルンにまで及ぶ典型的八方美人だったという近衛の内閣の下に支那事変が勃発、どんどん深みにはまって行った。

 二・二六事件を叛乱として鎮圧したのは天皇個人であった。立憲君主国の君主たらんとした天皇にとって、この時の憲法無視の行為はいわばトラウマになったという。実際、これ以降、天皇が内閣の輔弼なしで国政を左右するような意見を述べることは無くなった。その後の支那事変の発生と拡大、さらに対米英開戦に対しても疑問や懸念や反対の態度は示したものの、閣議決定を覆したり、独断で勅令を発するということはしなかった。
 次に天皇が憲法を逸脱して政治介入したのは昭和20年8月10日と14日で、ポツダム宣言受諾を巡っての閣内不一致を前にしてのことであった。

 クーデターが成功していたら日本はどうなったか。
 クーデターの成功とは磯辺、村中らが中心の天皇親政を敷き、戒厳令の下に速やかに宮中、政界、財界、軍、特に陸軍参謀本部の反クーデター勢力を粛正した状況であるが、不確定要素が山ほど出てくる。
 重鎮三人をいきなり襲撃された海軍が黙っているか、陸軍の大部分はどう出るか。さらに昭和11年という時代は今日想像するよりずっと民主主義的であったゆえ、力を持っていた政党、議会やマスコミ、即ち国民の声も無視できない。また、財閥・資本家が国家社会主義の名のもとに資産・財産をおとなしく差し出すか、何より30歳そこそこの連隊将校たちと古色蒼然の将軍たちにどんな政治ができるか。
 混乱の中で第二のクーデター勃発の不安は高まり、日本の国際信用は失墜し、英米との関係は悪化。大陸ではソ連と支那軍閥の対日軍事行動が活発化、国内では社会主義運動が勢いを増し対する思想警察、と極東に強大な軍事力を持ちながら極めて政治的に不安定な国が存在することになったであろう。
 そのパラレルワールドの大日本帝國が、実際の歴史の昭和20年8月のような壊滅を迎えるか否か、これはSFのテーマとして考えると面白いかもしれないが、小説家の想像力が必要そうである。

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