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エッセイ・コラム

1億円女

内田 満夫

 その女性は貯金が1億円あると言うので驚く。いつのまにか、そんな話の流れになっていた。
 先日、所用があって上京した帰りの京浜東北線の、とある駅前のコンビニ。投宿したホテルを6時に出て、そのイートインコーナーで食べていた時のことだ。隣席の女性と天候のことで他愛のない言葉を交わしたのがきっかけで、小半時も話し込むこととなった。このあと掃除の仕事に向かうらしい。
 15歳で鹿児島から上京し、大手電機メーカーT社に45年間勤めていたと言う。半世紀前、地方の中卒者が「金の卵」と持てはやされた時期があった。この女性、中学卒で就職して定年まで全うしたようだ。それだけで稀有のことと驚いていたところに、1億円の話である。かつての高度経済成長期には10年で預金が倍額になる時代があったから、ありえない話ではない。眼鏡をかけて化粧っ気のない地味な印象から察するに、無駄遣いをせずにコツコツと貯蓄に励んだのだろう。
 見かけによらず闊達なところがある。工場現場ではライン作業のベテラン監督者だったのかもしれない。5年前の定年直前には鳥取の工場に赴任していたと言うから、会社としても、地方転勤を厭わない仕事一筋の重宝な存在だったのだろう。我々とともに日本の高度経済成長を支えた同士、まさに企業OGである。「……女」と呼び捨てては失礼きわまりないことだった。
 このT社には、かつては私の父親が、昨年までは私の娘が在籍していたことを話すと、親近感と厚意にさらに弾みがついた。時おり見せる笑顔も人懐っこい。私が朝酒をやっているのを見て、チーズやソーセージや納豆やヨーグルトなどを、次から次へと出してくる。焼売までチンしてくれて、ちょっとした宴会気分になった。お別れする時にはポカリスエットのボトルまで持たせてくれる。
 このあとどちら方面へお仕事に?と問うと、何と私が今しがたチェックアウトしたホテルに向かうと言うではないか。その偶然にまた驚く。思いがけない人との出会い、楽しいおしゃべりの余韻に浸りながら、一路神戸をめざし東京をあとにした。

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