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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その二十七 松島~柳津)

池田 隆

三十日目(平成三十年四月二十日)
 目覚めて松島湾に面した広縁のカーテンを開けると、丁度日の出の時刻であった。朝靄が徐々に薄くなり、沖の小島や岩礁が朝日に照らされていく。暫し眺めた後、温泉浴と朝食を済ませホテルを出立。
 尾根伝いの旧石巻脇往還を快調に進むと、とつぜん用水池の堤防に突き当たり道が途絶える。道標もない狭い山道なので岐路を間違えたようだ。『奥の細道』には、「人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往きかふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ」とあり、芭蕉もこの辺りで道に迷っていた。期せずして同じ轍を踏んだが、歩き始めなので時間と体力のロスもさほど気にならない。やがて緩やかな下り坂となり、鳴瀬川の堤防に出る。
 小一時間ほど下流に向け河原の草むらを歩き、歩行者専用橋を渡り小野の集落に入る。河口からは八キロ程もあるが、此辺りまで津波が押し寄せたのか、家並みが新しく閑散としている。昼食にしようとコンビニや飲食店を探すが中々見当たらない。
 やっと開店中の店を見つけ、ざるラーメンを食う。店主から震災時の様子を聞くと、海岸線とJR仙石線の間、幅四キロほどの地帯がとくに被害甚大だったとのこと。
 午後はその被害甚大地域を通る旧石巻街道をひたすら歩む。松島基地を離着陸する戦闘機の爆音が時折響き渡るが、津波の惨事を忘れたように長閑な水田が続く。石巻市街に入り、今夜のホテルにチェックイン。フロントにリュックを預け、タクシーで海辺の高台にある日和山公園へ向う。
 展望台にはその位置から撮った3.11の以前と直後の写真パネルが掲示されている。当時テレビで見た痛々しい惨状を思い起こしながら、パネルと実景を見比べていく。七年の歳月を経ても以前の姿とは程遠く、復興の難しさを実感する。大勢の学童が津波に巻き込まれて亡くなった大門小学校の方角に目を遣ると、意外にも校舎が背後の高台に近い。大人たちの津波リスクに対する認識の甘さを改めて悔やむ。

三十一日目(平成三十年四月二十一日)
 今日の予定、柳津(やないづ)まではかなりの距離がある。朝食を済ませ急いで出発する。貞山運河(北上運河)に沿って市街地を抜ける。伊達政宗によって開削されたこの運河は明治初期に日本最初の近代運河として再整備され、仙台藩・宮城県の発展の基礎になったという。現在は歴史遺産として良く整備されている。
 運河北端の石井閘門からは旧北上川の快適な右岸堤防を北へ進む。二時間ほどで河口より十四キロ地点にある天王橋に着く。此処からのルートが思案の為所である。芭蕉が歩き、今も主要国道になっている一関街道は東にややシフトし北上川左岸を真直ぐに北上する。最短コースに近いがトラックなどの交通量が多く、そのうえ歩道のない区間が長そうである。
 もう一つの案は相当の迂回になるが北西に広がる水田地帯を突っ切り、その後北東に向きを変え、山間を縫っていくコースである。時間に余裕があると判断し、車通りの心配がない此方を選ぶ。遥か先まで真直ぐに続く用水路に沿って進み始める。
 路辺に咲く菜の花の黄色い帯が地平線に向い槍先のように伸びる。周囲は縦十キロ、横四キロほどもある広大な水田地帯で、格子状に数ヘクタール単位で正確に区切られている。民家はなく、田植え前の時期で人影もない。
 雄大な光景に浸りながら黙々と足を運んでいると、S翁が昔を思い出し呟き始める。昭和三十年代、彼が当時赴任していた東北農政局では圃場整備事業の一環として、この方面の水田地帯に対し大規模集約化と農業機械化を推進したという。自分たちの成果の半世紀後の姿を感慨深く眺めておられる。
 コースは平坦だが予定以上に時間を食い、北上川の右岸に出ても柳津大橋がなかなか見えてこない。柳津駅発16:29発の列車に間に合わなければ今日中に東京に戻れないかも知れない。最後の数キロは疲れた足に鞭打ち、なんとか発車四分前に辿り着く。

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