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エッセイ・コラム

正倉院の『写経所文書』

内藤 真理子

 らじるらじるで「正倉院の話をやってますよ~」っと、当会のYさんに教わったので早速聞いてみた。
 「正倉院文書の森に分け入る」という題で、栄原永遠男大阪市立大名誉教授と、アナウンサーの掛け合いで番組が進行していた。
 「正倉院に納まるべくして収まった文書は、北倉に十七巻入っていますが、中倉にも『写経所文書』として六百七十巻入っているんですわー」
 先生の柔らかい関西弁が、いかにも「おもろいでっしゃろ」とでも言いたげだ。
 中倉にある写経所文書は、東大寺やその他の写経所で写経されたもので、大概は、もう書かれているものの裏側に写経したものだそうだ。
 その表側は、奈良時代の役所で使用され、必要な時期が過ぎたので処分されたもの等で、束にして市場で売られていた。
 〝ふ~ん〟 東大寺大仏殿界隈のにぎわいが目に浮かぶようだ。
 束の一枚づつには、戸籍、慶弔、公文書、その他が書かれたものがランダムに混入されていて、当時を知る貴重な資料となっている。
 だが、どうしてそんな誰が書いたかわからない反故同然の物が、格調高き正倉院に入っていたのだろう。

 図書館に行って栄原先生の著書「正倉院文書入門」を借りてきた。
 正倉院のものは奈良時代に保存されたのだが、江戸時代後期に、修理の為に倉を開けた時、古文書学者の穂井田忠友が中の文書類を調べた。
 北倉に置かれていた文書は
①聖武天皇の遺品など盧舎那仏に献じた際の目録「献物帳」五巻
②虫干しの時に行った宝物の点検結果報告書 五巻
③出納関係の文書 七巻
 の計十七巻で、まさに収まるべくして収まった正倉院の宝物で、これらを「北倉文書」という。
 「中倉文書」というのもある。中倉に入っていた、かつては「写経所」の政所にあったもので「写経所文書」ともいい、写経所の事務帳簿類が主で、造石山寺の帳簿類も混じった文書群だ。それらの本来なら写経所にある筈の物が何故か、正倉院の宝庫に入っていたのを穂井田忠友が開封した時に発見した。
 私は写経所というのは、写経をしたい人が写経をする所だと単純に考えていた。
 だが、中倉にあったものは、光明子が始めた写経所事業の文書類で、これを見ればそれぞれの写経所のすべてがわかる。
 例えば石山寺を造る時の写経所事業では、何人の人を写経所に集め、何種類、何巻の経典を写経するのか、紙を選び、筆や墨を用意し、写経をする人達の衣類から食事までかかった費用や経過を克明に文書に記録するので、そこから読み取ることが出来るのだ。
 中倉の文書を開封した時、すでに使用済みの公文書の裏に書かれた写経所の文書(帳簿)が大量にあった。最初に見つけた穂井田忠友が、表の反故紙だったかつての公文書に重きを置いて、難しいパズルを解くように、切ったり貼ったりしながら、奈良時代の戸籍など帳簿類の復元に取り組んでいる。
 時代は下り、写経所事業の貴重な文書の復元も始まった。せっかくきちんとした書類だったのをバラバラにしてしまったので、大変な苦労をしながら、現在も、奈良時代に書かれたものに近付ける作業をしている。
 番組の最後に、それらの貴重なものを、よくぞ正倉院の片隅に置いてくれたものだと言っていた。現在では、これらは奈良時代を知る本物の宝物なのだ。

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