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エッセイ・コラム

二・二六事件(4) 実行。

志村 良知

 決起軍の中心になった麻布(現国立新美術館)の第3連隊では真夜中に非常呼集が掛かり、約930名が衛庭に集められた。連隊は新兵教育のための内務班体制であったが、機関銃隊は内務班を解かれ、16挺の重機関銃を中隊支援火器として各歩兵中隊に分散配備した実戦態勢に編成替えされた。
 午前3時30分、安藤大尉指揮する鈴木侍従長官邸襲撃隊(侍従長重傷)200名が千鳥ヶ淵へ向けて出発。50分後、坂井中尉の齋藤内大臣襲撃隊(内大臣殺害)210名が四谷へ。この襲撃隊の一部30名余りと機関銃4丁を四谷見附でピックアップして荻窪の渡邊教育総監邸(教育総監殺害)に運ぶ田中中尉のトラック隊もこの頃千葉の国府台を出発。
 残りの第3連隊決起軍510名は赤坂檜町(現東京ミッドタウン)の第1連隊に向かい、いったん第1連隊決起軍と合流した後、警視庁へ、建物に向け機関銃を布陣して無血占拠。第1連隊の460名は、それぞれ首相官邸(岡田首相殺害失敗)、陸軍省、参謀本部、陸相官邸(川島陸相確保)へ。彼らの行軍は監視の目がある警察署や官庁を避けた巧みな経路を経ており、襲撃は全て圧倒的大兵力での奇襲に成功した。
 一方、赤坂(現赤坂サカス)の近衛歩兵第3連隊から中橋中尉が副中隊長を務める第7中隊60名を率いて薬研坂を青山の髙橋蔵相邸(蔵相殺害)へ。中橋中尉はこのあと、さらに半蔵門から宮城内に入り、参内者が通る正門である坂下門の制圧保持任務を帯びていた。第7中隊はこの日、宮城警備当番控隊で、比較的容易に宮城内に入れる立場にあり、これを利用して宮城内に入ったが、坂下門制圧には失敗した。
 別行動の西園寺、牧野の両元老の襲撃は中止ないし失敗に終わった。

 午前6時30分頃には全ての襲撃が終わり、決起軍は警視庁、陸軍省、赤坂周辺のホテルや料亭などに集合した。二・二六事件と言うと「降りしきる雪」であるが、当時も現在と同じ大手町にあった気象庁の記録によると東京の雪の降り始めは午前8時8分、事が全て終わってからだった。雪は終日降り続き、三日前の記録的大雪の残雪20センチの上にさらに10センチあまり積もり、事件の雪の印象を深くした。
 この日は水曜日、決起軍のピケットラインの内に入ってしまった府立一中(日比谷高校)では、生徒たちが兵士に誰何されつつ登校したものの、1時間目が終わると下校させられ翌日からの期末試験は延期、29日まで臨時休校となった。学校から生徒の家庭への連絡は電話で行われ、電話の無い家庭へは電報が打たれた。

二・二六事件(5) 宮中、に続く

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