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エッセイ・コラム

相模湖のワカサギ

野瀬 隆平

 大きな窓の脇にあるテーブル席から、硝子越しに湖面がきらきらと光り輝いているのが見渡せる。風はまだ冷たいが、陽がさんさんと降り注いでいるので、中は温室のように暖かい。

 友人のTさんからお誘いがあったのは数日前である。
「相模湖のワカサギが食べごろらしいが、一緒に行かないか」という。もう数十年も通いなれた店だと聞いていた。
(東京を通り越して延々と神奈川県まで行くのは大変だ)
と一瞬迷ったが、食い意地の張った自分には、食べることの魅力がまさり、お誘いをうけることにした。
 高尾で乗り換えて、次の相模湖駅に降り立つ。中学生の時に遠足で来た記憶がある。もう何十年たったのだろうか。確か駅名は相模湖ではなかったような気がする。歩くこと十数分、なだらかな坂道を湖畔に向かって降りたところにその店はあった。近くに船着き場があって、ボートや遊覧船が舫ってある。店に入ると、かつて店を切り盛りしていたお婆ちゃんや娘さんのお出迎えがあり、顔なじみのTさんは大歓迎を受けている。

 ワカサギがお目当てで来たのであるから、メニューにある他の料理には目もくれず、もっぱらこの魚に絞って注文することにした。ワカサギ料理には四種類あった。てんぷら、フライ、塩焼きとたれ焼きだ。調理法によって味がどう変わるのか知りたいので、欲張ってそのすべてを頼んだ。この魚の味は繊細なので、味付けは薄めの方が良い。先ずは塩焼きに箸を伸ばす。ほろ苦さが口の中に広がる。
 ここで、おすすめの地酒「相模灘」を冷でぐいと一杯。くせのないこの生酒は料理の邪魔をしないので、食中に呑む酒として最適だ。
 意外と美味しかったのが、フライである。揚げたての熱々で、パリッとした食感がたまらない。天ぷらには、近所で獲れたふきのとうなどの山菜のてんぷらも添えられている。お婆ちゃん自らが漬けたというご自慢の白菜や大根のおつけものも出てきた。
 料理がうまい上に、同席の仲間がみんな酒好きなので、お銚子が早いピッチでどんどん空になる。途中で冷酒からお燗酒に換えて、何本か数えきれないくらい空けてしまった。
 都会の喧騒を離れ自然に囲まれた中で、うまい物をうまい酒と一緒に、気心の知れた友と飲食する楽しさ。贅沢な時間をたっぷりと過ごした後、湖畔に出て93歳とはとても思えない元気なお婆ちゃんと、湖を背景に記念写真を撮る。帰りは店の主人が車で相模湖付近を案内しがてら駅まで送ってくれた。
 昨日は立春。確実に春が来ていることが実感できる、身も心も暖まる一日だった。

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