作品の閲覧

エッセイ・コラム

新台北事情(2)

西川 武彦

 ベッドでうつらうつら、うとうとしていると、大昔の台北出張を思い出した。
 最初は1967年だったろうか。中国との国交が途絶していて、中国線といえば、台湾便のことだった。当時、台湾側のCALには運航能力がなく、日台間では、日本側の国策会社であるJALのみが運航していた。1964年の東京五輪が終わり、翌1965年に渡航自由化でパック旅行が登場して、日本人の出国旅客は右肩上がりで急増していた頃である。
 増便を求めた航空会社間交渉で、筆者はJAL側代表の事務方として出張した。入念に練った需要予測などの作戦が実ったのだろうか、ロジックで敵方を丸め込んで、交渉は大成功。詳しくは書けないものの、JALのみが運航して、相手側は合意した範囲で座席を売って決まった単価で収入を得るという一種の共同運航だ。協議が終わった夜は十席の円卓を双方が囲む懇親パーテイ。当方の三人に対して相手側は七名だった。台湾式とかで、一人が一言ずつ挨拶しては紹興酒で乾杯を重ねた。二時間は続いただろうか。小さな盃とはいえ、年寄り二人が適当にあしらうのを横目に、三十そこそこの筆者は若さで一気のみを引き受けたからたまらない。
 二次会で送り込まれた北投温泉では、あてがわれた部屋であてがわれた女性と添い寝する間もなく眠りこけてしまったから情けない。翌朝目が覚めると帰り便の時間が迫っているではないか。宿のフロントに聞くと、上司二人は、泊まらずに台北のホテルに戻ったらしい。「こりゃしまった!」、鞄持ち落第である。車を手配してもらい、ホテル経由、台北松山空港に駆けつけた。
 交渉結果はまずは目出度しで、翌日の役員会で報告、万々歳だったが、好事魔多し…。その翌日に先方から連絡が入り、台湾航空当局の認可を得られなかったというではないか。CALは「国営」だから、つるんでいたのだろう。先方の罠にかかったのだ。
 再度、訪台することとなった。今回は交渉のレベルを上げて、経営担当の常務さんが筆頭交渉官となり、その鞄持ちでお供した。それも一度では終わらず、こちらがなにがしかの譲歩を重ねて最終合意が成立した苦い思い出が残っている。

 今回の旅では、淡水のほか、台北郊外の陶磁器の郷・鶯歌、緑茶/藍染/木彫などで知られる三峡などの古い街を楽しんだ。どこへ行っても、台湾文化の中には、スペイン・ポルトガル、オランダ、清国、そして日本の香りが不思議に溶け合って混在する感じだ。
 台湾は英語でFormosaとも言われるが、ヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル船の船員が、緑に覆われた島に感動して〝Formosa″(麗しの島)と叫んだのが謂れとか……。異国情緒が溢れているのだ。
 日本からは四時間の空の旅で時差はわずか一時間、MTRや高速鉄道が日本以上に便利になって、物は割安、親日的で安全、日本語でなんとか通じる昨今の台北は、ジャパンの高齢者にはお勧めの海外旅行のスポットであろう。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧