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エッセイ・コラム

喫煙室のグレタ・ガルボさん

木村 敏美

 夫婦でよく朝食をとりに行くカフェレストランで、必ず会う女性が一人いる。彼女はいつも喫煙室の左端に、お一人様用の席で一般室に向かって座っている。部屋のしきりは食事をのせる所までは木製で、その上は天井まで曇りガラスと透明ガラスの格子で作られ、顔はよく見えないが姿から彼女だとすぐわかる。
 他にも常連客はいるが、彼女に限らず言葉を交わしたことは無い。いつの間にか私達は常連客の人達に、感じが似ている歌手や有名人、知人などの名前をつけ今日は来ているとか、暫く見ないとか話したりする。喫煙室の彼女には知人の名前をつけていた。ある日帰りの車の中から、一足先に店を出た彼女が歩いているのが見えた。ジーンズ色の帽子に同系色のチョッキとズボンで足早に歩いている。その後何度かその姿を見かけ確信した。彼女のスポーティな服装からもウオーキングをして朝食を摂りに来ているのだと。
 ある時少し高く作られている禁煙室の一番奥に座ると、何気なく見えた喫煙室の彼女が食事の後本を開いて懸命に何かやっている。どうも週刊誌などに載っているクイズやクロスワードをやっているようだ。今までに煙草を吸っている姿や、誰かと話をしているのを見たことが無い。窓際から一番遠い席に座り、食事の時以外はいつも俯いて何かをやっている。それで二つ目の確信をした。食後は脳トレをしているのだと。週に2、3回の不定期便の私達がいつも見るということは、彼女は毎日来ているのだろう。ウオーキングで筋力を鍛えカフェでの朝食後、脳トレをして一日をスタートしているのだ
 ある冬の寒い朝カフェに行くと彼女はすでに来ていて、私達は少し離れた一般室の彼女の正面に座った。暫くすると彼女はすっくと立ち上がり帽子をかぶった。今迄に見たこともない落ち着いた深紅の布製の帽子に同じ色の上着をはおり、それがとても新鮮でおしゃれな感じがした。その時ふと頭にグレタ・ガルボの姿が浮かんだ。以前テレビで、坂東玉三郎が敬愛するグレタ・ガルボの生誕地を訪ねるという番組を見たことがあり印象に残っていたのだ。スエーデン出身のハリウッドを代表する最初の大スターで、その美貌と演技力に「ガルボの前にガルボなし、ガルボの後にガルボなし」と言われたほどだった。映画もヒットしたが三十五歳で引退。八十四歳で没するまでの生活はベールに包まれているが、散歩が趣味だったことだけは確からしい。女優時代もマスコミ嫌いで、外出の時は帽子とサングラスで人目を避け、私生活を決して見せなかった。又引退する時の潔さと、その後も数少ない人間関係を最後まで貫き、孤高の美学で伝説の女優となった。喫煙室の彼女は、私達のように子供や孫や友人と一緒だったりすることもない。常に一人で、店を出る時店員に「ご馳走様」とだけ言って帰っていく。年齢はかなりいっているようだが、小柄で姿勢がよく、決して足元はふらつかない。長年のウオーキングと脳トレは足元に表れ、それは生きていく姿勢のようにも思えた。私がお一人様になった時あんなに強くなれるだろうか。
 大スターでありながら若くして引退した後、公の場には出ることなく孤高に生きたグレタ・ガルボ。深紅の帽子と上着を見たその日から、勝手に彼女の名前を知人からガルボさんに変えた。あっ今日もガルボさん来ている!その姿を見ると何故かほっとする私なのだ。

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