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エッセイ・コラム

蘇州夜曲

稲宮 健一

 建築士の高校の同級生が上海に住み工業デザインで活躍していた。二〇〇三年、久しぶりに彼を訪ね上海へ飛んだ。そして、入国審査の入口にかかると、何か聞き覚えのあるバックグランド・ミュージックが耳に入ってきた。あれ、蘇州夜曲ではないか。西條八十作詞、服部良一作曲だ。おそらく、上海の入国管理局の職員は中国人が作った曲と思い込んでいたのだろう。哀愁を帯び、二胡の響きが薄っすら入り、いかにも中国らしく、往年の我々には懐メロだ。戦後もしばらくはラジオから蘇州夜曲、支那の夜などが流れ、そして歌手の山口淑子(李香蘭)、渡辺ハマ子、霧島昇と昔の記憶が蘇る。なぜ、日本人作の曲が使われたか。以下は推測である。

 蘇州夜曲を生んだ土壌はそれより二十年程前に遡る。明治時代に西欧文化に真正面から取り組んだ。土井晩翠/滝廉太郎、高野辰之/岡野貞一らにより西欧のメロディーを取り入れた、花、荒城の月、故郷、春の小川、朧月夜などが生まれた。メロディーは西欧、歌詞は和製という和製歌曲である。それが日本の歌になり、日本人の心に残った。蘇州夜曲はこの流れを引き継ぎ、戦前の日本と中国が入り混じった文化的な交流が密接だった頃を背景にした曲だと思う。

 日本とって明治期は東西の文化がぶつかり合い、真剣に取り組んだ時代だ。しかし、同じ時期、日本周辺では政治勢力の興亡が激しく起き、東西の文化をじっくり吟味する余裕はなく、日本と同様な文化活動は見られなかった。その時代の中国は二十世紀初めの清朝の滅亡、孫文、蒋介石、毛沢東、鄧小平と政治が安定するまで、混乱が続いた。政治の安定なくして、文芸に取り込む機運は起こらない。しかし、バックグラウンド・ミュージックには歌詞はさておき、リズムは西欧的ものが合っている。改革開放の十年後、西欧の映画や、音楽がかなり自由に入ってきているので、それらの常識に合った音楽として蘇州夜曲が入管当局で放送されたのだろう。

参考:滝廉太郎(一八七九~一九〇三)、土井晩翠(一八七一~一九五二)、高野辰之(一八七六~一九四七)、岡野貞一(一八七八~一九四一)、西條八十(一八九二~一九七〇)、服部良一(一九〇七~一九九三)

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