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エッセイ・コラム

鴎外の処世術小説『舞姫』

清水 勝

 森鴎外は4年間のドイツ留学から明治21年9月8日に帰国した。帰国後は医学関係の論文を発表しているが、翌年からは西洋文学を「読売新聞」に紹介するなどの文学活動を始め、明治23年1月にドイツ留学に取材した処女小説『舞姫』を発表した。
 津和野藩の御典医であった森家の長男として、6歳から漢学を学び、8歳ではオランダ語、そして11歳の時には東京に出てドイツ語を学んでいる。その後東京大学医学部を卒業して陸軍軍医となり、エリートコースまっしぐらに進んできた森林太郎(鴎外の本名)は、まさに森家の期待を一身に担いドイツ留学へと向った。
 留学先ドイツで、鴎外は医学以外にも西欧の異文化に接し、自由、自我、主体性の存在を余すことなく感じ取ったものと思われる。それは『舞姫』の主人公太田豊太郎が踊り子エリスとの職を賭した恋愛で示されている。しかし、その結末は余りにも悲劇的で、豊太郎の意思・主体性がぼやかされて描かれている。
 すなわち、豊太郎が高熱で意識不明の時に親友相沢謙太郎がエリスとの関係を清算してしまい、それが原因でエリスが精神病を患い、豊太郎が完治したときにはエリスとは会話すらしていない。これでは自我に目覚めた豊太郎のエリスへの愛の悩み、決断が全く描かれていない。
 この小説の背景には、鴎外が帰国して二週間後に、ドイツからエリスという踊りの上手な女性が鴎外の後を追って日本に来たという事実が絡んでいる。さすがの鴎外も帰朝したその日に、父親にエリスのことを告げており、母親の心配している様子は鴎外の妹小金井喜美子が『森鴎外の系族』に記している。
 その解決に当たったのは、義弟小金井良精(妹喜美子の夫で東大医学部教授)と弟森篤次郎であった。文字通り森家挙げての対応である。そこにもう一人、重要人物が関わっている。鴎外の親友で、山縣有朋と近い人物の賀古鶴所がその人である。
 エリス事件は陸軍省のみならず、エリート官僚間では何かと噂になっており、この取扱い次第では森家の期待の星である鴎外の立身出世計画は大きく狂いが生じる。
 自由・自我に接してきた鴎外にとっても、日本での現実、森家での長男の位置づけは無視できず、エリスとの関係を無難に処理せざるを得ないと、帰朝する長い船旅の中で考え、その延長線上に『舞姫』の構想を描いていたのではないだろうか。
 事件を問題視させないために『舞姫』の登場人物は巧妙に仕組まれている。太田豊太郎が鴎外をモデルとすれば、豊太郎の親友相沢は鴎外の親友賀古であり、相沢の仕える大臣天方伯は、その音感から、当時の陸軍の大御所であった内務大臣山縣伯その人がモデルである。
 小金井良精と篤次郎がエリスの気持ちを和らげ、十月十七日に何事もなく帰国させることに成功したが、一方、親友賀古鶴所は山縣有朋に事情を打ち明け助力をお願いしていたのである。当時は男性が妾を持つのは当然という風潮もあってエリス事件に山縣も寛容であったのかも知れない。こうして『舞姫』の構想は現実化した。
 『舞姫』を読んだ当時のエリートは、鴎外のエリス事件は山縣有朋も知っており、天方伯=山縣伯は鴎外を許し、不問にしている、と思ったことは容易に想像できる。やがて噂話も鳴りを潜め、鴎外の保身は成功し、『舞姫』による世論操作そして処世術は見事なものといえよう。
 さらに、鴎外による仕掛け・演出がもう一つある。鴎外は『舞姫』を書き終えた原稿を最初に読ませたのが、親友賀古鶴所である。賀古は「己の親分気分が良く出ているとひどく喜んで、ぐずぐず陰言をいう奴等に正面からぶつけてやるのはいい気持ちだ」と言った(小金井喜美子『森於菟に』)。次に篤次郎が家族の揃ったところで朗読している。これにより、エリス問題で迷惑を掛けた人々に同意を得た上で、「国民之友」に『舞姫』を発表したのである。この気遣いと巧みさには脱帽である。
 鴎外の最初の小説であり、名作といわれている『舞姫』が、実生活の危機を打開するための手段として書かれたことに唖然とさせられる。しかしながら、鴎外自身はエリスを棄てた後悔と、中途半端な自我の描き方の反省が、その後の鴎外文学の原動力になったのである。
 かくして、鴎外は文豪かつ軍医総監にまで上り詰めた。

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