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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その十五、十六 矢吹~須賀川)

池田 隆

十七日目(平成二十九年五月二十九日)前半
 東京駅より普通列車を乗り継ぎ、十時過ぎに東北本線矢吹駅に到着。我々三人はホームの階段の上で二人の老紳士に迎えられた。矢吹で百五十年酒造業を営む「大木大吉本店」の前代社長大木氏と連れのO氏である。
 彼の工場は東日本大震災で壊滅したが、建屋の再建を私の親友の息女である新進気鋭の建築設計士が請負った。その出来栄えを一目見せて欲しいと親友を介してお願いしていた。ところが先方は「奥の細道」を辿る芭蕉愛好者の来訪と思われたようだ。O氏は俳句熱の盛んなこの地方で国語の先生をしていた方との紹介を受ける。「芭蕉」より「歩き旅」に軸足をおく我々は些か戸惑い恐縮する。
 さっそく駅前にある醸造工場へ。新しい建材を使っているが、木材であしらった白壁や、随所に取り入れてある古材の梁や柱は伝統的な雰囲気を醸し出す。機器装置類は一式新設され、化学プラントのようだ。だが発酵用の金属製タンクを据えた建屋は地震で半壊した厚い土壁を直し、新たな外壁で保持する構造になっている。土壁に沁み込んでいる発酵菌を残すためという。醸造技術は奥が深い。
 本酒造は大吟醸「自然郷」のブランドで有名だが、「こんにちは料理酒」も人気商品との話。淡麗な味にしようと甘口の純米酒を造ったが全く売れなかったという。偶々大木氏夫人がその在庫品を料理に使ったところ、少しの量で素晴らしくコクが出ることを発見した。それを高級料理酒に仕上げ、今や全国の料理店や食通家に愛用されているとのこと。帰宅したらぜひ買い求めてみよう。
 東郷元帥を泊めたという由緒ある大木氏宅の座敷でO氏から多数のパンフや資料を頂戴しながら、芭蕉の訪問先やルートの説明を伺う。さらにO氏自身で実地の案内をして下さるという。大木氏運転のワゴン車でO氏、大木氏夫人と一緒に文部省唱歌「牧場の朝」のモデルとなった鏡石の岩瀬牧場を抜けて、乙字が滝から須賀川の十念寺へと向う。

十七日目(平成二十九年五月二十九日)後半
 乙字が滝(石河の滝)は阿武隈川が激しく蛇行する平原のなかの名瀑である。川幅百mの大河本流が乙字を描く岩角から六mの落差を鋭く流れ落ちる。芭蕉は須賀川より郡山へ向う途上、この滝を見るために迂回し、
 五月雨の滝降りうづむ水かさ哉
と詠んだ。
 瀧見不動尊の前で勇壮な滝を眺めながらО氏より滝の説明を受ける。幕末に民間の有志が多大の労力と資金を投じて河岸の縁を掘削し、舟運を開いたが、明治になり鉄道が引かれ廃れたという。今は観光客も少なく、大木氏夫人は近くに住みながら何十年ぶりに来たとのこと。
 歩くと半日がかりの距離だが、車は直ぐに須賀川市街に着く。О氏推奨の芭蕉記念館が生憎の休館日で、代わりに十念寺を訪れる。大震災の爪痕を残す倒れたままの墓石や石灯篭が痛ましい。
 芭蕉は親交のあった須賀川の俳人相楽等躬の宅に八日間も滞在し、曽良を加え三吟歌仙を巻いた。その発句
 風流の初めやおくの田植え歌
の句碑が境内に立つ。
 ここでО氏と大木氏夫妻と別れ、ホテルに荷物を置き、頂いた資料を片手に市街散策に出掛ける。震災で昔の街並みがすっかり変わったというが、芭蕉所縁の寺社や旧跡が多い。道筋には俳句を書いた軒先行燈が連なり、随所に俳句ポストが立つ。街中に俳句の文学的な香りが漂う。
 街角に置いてある芭蕉記念館発行の月刊かわら版(A3)を開くと、俳句ポスト受賞者の年齢層が小学生から大人までと幅広い。「等躬の人物像」、「俳句の味わい方」、「芭蕉クイズ」、「目借時という季語」など興味をそそる記事が満載である。
 須賀川の俳句熱は町おこしのための一時的なブームではない。町所縁の多くの俳人達によって三百年間以上連綿と続いている。その第一人者が芭蕉を尊敬し文化文政に活躍した市原多代女とのこと。街の至る処で彼女の名を付した地名や旧跡、句碑を見掛け、書きとめる。
 此うえに又としよらん初時雨  
 終に行く道はいずくぞ花の雲 (辞世の句)

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