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エッセイ・コラム

唯識思想 4.刹那滅という考え方

斉藤 征雄

 ところで仏教は、あらゆるものの存在を刹那滅という考え方でとらえる。
 あらゆるものは、無数の基本的要素が縁起によって因果関係を結び、存在を構成する。ただし、その存在は一瞬間だけである。瞬間的に生起して消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅する、そしてそれが連続すると考えるのである。われわれには持続して存在していると見えるものは、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものなのである。この考え方を、刹那滅という。
 基本的要素の構成が変化すれば、存在するものも刹那ごとに変化する。ここにすべてのものが永久に変わらないものはないという無常、無我が説明されるロジックがある。

 部派仏教の説一切有部は、刹那滅の立場に立ちながら、瞬間、瞬間の生起、消滅を過去、現在、未来の位相でとらえた。すなわち生起とは、存在を構成する要素(ダルマ)が未来から現在に現れ出ることであり、消滅は現在から過去へ去ることである。瞬間ごとに生起、消滅するからそこには恒常的な自我は存在しない。しかし、存在を構成する要素はこれ以上分割できない極微の単位だから、それ自体は恒常的に実有とした。つまり、過去、現在、未来と三世にわたって実有というのである。
 有部のこの考えを大乗仏教は批判し、対立軸として空の思想を生み出した。

 部派仏教の中にも、有部に対立する考えが生まれた。有部から分かれた経量部である。有部が過去や未来をも視野に入れるのに対して、経量部は現在だけを問題にする。すなわち過去に見たものは記憶の問題、未来に見るものは推理の問題として認識から外し、刹那滅を厳密に現在だけに限定する。
 すべてのものは、各瞬間に生起し消滅する。すなわち各瞬間に別のものとして生まれ変わっていく流れとしてとらえ、そこには不変の同一性を保って続いていく本体のようなものはないと考える。

 世親は、大乗仏教に移る前は経量部の立場にあった。経量部の立場から有部の思想を批判したのが『俱舎論』である。その後大乗仏教に移って唯識思想を大成するが、刹那滅の考え方については経量部のものをそのまま唯識思想に持ち込んでいる。存在は現在の一瞬だけ、ものごとの認識は思惟ではなく、一瞬の知覚つまり直感のみとするのである。

(仏教学習ノート44)

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