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エッセイ・コラム

唯識思想 3.五位百法は、説一切有部の五位七十五法を引き継ぐ

斉藤 征雄

 仏教は一貫して、人間の存在のしくみについて追及してきた。 原始仏教では、たとえば人間の「見る」という行為について次のように分析する。すなわち、見るという心のはたらき、実際に見る眼という器官のはたらき、見られる対象の三つである。そして人間の外界を認識する六種の認識について、以下のように分類した。

六種類の認識 見る 聞く 嗅ぐ 味わう 触れる 知り思う
心のはたらき 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 (六識という)
器官のはたらき (六根という)
客観的対象 (六境という)

 (六根と六境を合わせて十二処、それに六識を加えて十八界という)
 もう一つは、五蘊という考え方である。人間の存在を、物質的要素の色(身体)と、精神的要素の受(感情)、想(認識)、行(意思)、識(知恵)の五つの機能(構成要素)に分け、それがすべてであると考える。
 十二処、十八界、五蘊のように人間存在を構成する要素について、特に心の分析を細かく分類するのは、そこに恒常不変の要素がないことから、無常、無我を論証しようとしたのである。
 部派仏教の説一切有部の五位七十五法は、原始仏教の十二処、十八界、五蘊の分類を引き継いでいる。そしてそれは、唯識思想の五位百法にそのまま引き継がれている。
 大乗仏教の空の思想は、説一切有部の考え方を否定するために生まれ、唯識思想はそれを受け継いでいるにも拘わらず、基本的な心の分析では説一切有部の考えを引き継いでいることに注目する必要がある。つまり、唯識の五位百法は、説一切有部の心の分析を空の思想で解釈し直されて作られたといわれるのである。
 五位百法の五つの範疇は、心王、心所有法、色法、不相応法(以上有為法―煩悩の世界)及び無為法(悟りの世界)である。このうち色法は物質世界、不相応法は物でも心でもない、たとえば時間等、無為法は悟りの世界であるから、唯識思想では、外界に対する認識は心王(心の中心)と心所有法(心王に所有される法、たとえば煩悩や善の心など)によって作られると考える。そして心王は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識の他に、未那(マナ)識、阿頼耶(アーラヤ)識を加えた八識から成るという。マナ識とは恒常的な自我意識、アーラヤ識とは表に現れる認識機能の根底にある潜在意識と解説される。
 唯識思想では、このアーラヤ識が「唯(ただ)識のみの世界」を作り出すという。

(仏教学習ノート43)

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