作品の閲覧

エッセイ・コラム

居酒屋を楽しむ

浜田 道雄

「らっしゃーい! おひとり? カウンターにどうぞ!」
 軽く頷いて、止まり木の隅に腰を下ろす。
「とりあえず、ビール!」
なんてけちなことはいわない。この店は蔵元直営だ。今晩はその酒を飲みにきたんだから。
 メニューには美味そうな酒の名がズラッと並んでいる。じっくりとそれらを眺め、
「まずは純米酒から行く。次はこれだ」
と飲む酒の順を組み立てて、それからそれらの酒に合いそうなつまみの吟味に入る。
 このところこんな風に、居酒屋で飲み、食べる楽しみにハマっている。

 若いころはいや数年前までは、ひとりで食べ物店に入るのが苦手だった。昼食をとりにオフィスを出ても、ひとりのときにはなかなか店に入れなかった。
 別に恥ずかしいからではない。人見知りだからでもない。ただ、一人でポツンとテーブルに座り、モソモソと飯を食う淋しげな自分を思うと食欲がなくなってしまい、店のドアを開ける気がしなくなったのである。
 その結果、昼を抜いてしまったり、家に帰ってからかみさんに笑われながら、出してもらった飯をかっこむなんてことを繰り返した。

 それが近ごろは堂々と暖簾をわけて飲み屋に入り、カウンターでひとり酒を飲む楽しみを覚えたのである。そのきっかけは、数年前の夏、ふと思い立ってひとり奈良を訪ねたことにある。
 宿泊先のホテルの高くてうまくもない飯は食いたくないと、夕暮れの街に出た。だが、例によってなかなか入ってみようと思う店には出会わない。
「やはり、ホテルで食うのか?」
と諦めて奈良駅まで戻ったとき、前をゆく中年の男女がスッと駅下ビルの居酒屋の暖簾を潜るのが見えた。
 すると、私もまた二人を追いかけるように同じ店に吸い込まれてしまったのだ。その店には私のこれまでの躊躇を忘れさせるような、楽しげな雰囲気が溢れているようにみえたのだろうか。あるいはその瞬間私の心のどこかに人恋しいと思う気持ちが吹き上がったのかもしれない。
 そして、カウンターに座って店のなかを見回したとき、これまで経験したことのない居心地のよさがここにあることを知った。
 以来、旅先のひとり酒は私の楽しみとなった。

 いまでは出かける前に旅先の居酒屋情報を調べておき、目当ての店で酒を楽しむのが旅のもうひとつの楽しみになった。そして、そこで本当にうまい酒に出会ったりすると、「人生は幸せだな!」ってつくづく思う。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧