作品の閲覧

エッセイ・コラム

虹を見るような歴史を見よう (その2)―渡辺昇一引用

安藤 英千代

1.『歴史は虹のようなもの』(オーエン・バーフィールド)

 歴史的事実(水滴のようなもの)と 、歴史(虹)は区別して見るべきです。水滴をいくら集めても虹にはならないように、歴史上の事実や事件をいくら集めても、それは歴史にはならないのです。歴史というものは、水滴のように限りなくある歴史上の事実や事件を適切な角度と距離をとって眺めることにより浮かび上がってくるものなのです。雨が上がったからと言って、どちらを向いても虹が見えるものでもない。視線の方向が重要で、また虹をもっとよく見ようと思って近づき過ぎると虹は消えてしまいます。
 虹のような歴史は、無限の歴史的な事実や事件の中から、ある国民の目にだけ七色に輝いて見えてくるものなのです。とてつもない方向を見ている人や、個々の事実だけに密着・執着するだけの人には虹の見える距離がないので、とても虹は見ることが出来ません。

2.『群盲 象を撫でる』(仏教)

 昔、ある王様が大勢の盲目の人に象を撫でさせ、「象はどのようなものだったか」 と答えさせたとい逸話があります。象の腹を撫でたものは太鼓のようだといい、尾を握ったものは杖のようだと言い、耳を撫でたものは笊(ザル)のようなものだと言い、牙に触った者は角のようなものだと言い、鼻に触った者は太い綱のようなものだと答え…という風に続きます。 いずれも正しいけれど、同時に正しくない。局所的に正しいと確信したこと、しかし局所的に正しいことは本当はとてつもなくトンチンカンということもあります。それよりはザッとでもよいから、象のスケッチをしたら象の形は良くわかるし、その傍に象使いでも書き添えたら象の大きさまでわかります。

 このような姿勢、視点で歴史を見ることが重要です。
 事実羅列の歴史教科書や、新聞・TV報道、中国・韓国の反日報道、ひいてはGHQが押付けた戦勝国歴史観の立脚点では、本当の日本歴史の虹や、正しい象の姿は見えるはずがありません。

(参考・引用)

①「追悼 渡辺昇一(永久保存版)」Will 7月号増刊
②「渡辺昇一の少年日本史」致知出版社 

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧