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エッセイ・コラム

濃藍(こあい)の海

浜田 道雄

 立夏から一月近くが過ぎたこのごろ、マグカップを片手に眺める海もすっかり夏の色に染まった。
 しばらく前まで沖合には春の名残が残っていて、空との境はおぼろにかすんでいたが、今朝は抜けるように晴れ上がった青空のもと、くっきりとした水平線が海と空とを切り分けている。海の色はもはや冬の鈍色でもなく、春の銀鼠でもない。朝日に輝く黒潮の命あふれる濃い藍色だ。
 そんな海を眺めていると、またしても子供のころ折に触れて出かけて行った大森の海の記憶が蘇ってくる。

 海を見ながらいつもその彼方にある国々を思った。この海の向こうにはアメリカがある。そして、アメリカのまだ先の大西洋の彼方にはヨーロッパやアフリカがある。だが、その国々について私は映画や新聞、書物などでしか知らない。
 まだ、世界は未知にあふれていたころである。その未知に出会い、それが何であるかを知るために、いつかアメリカやヨーロッパ、アフリカの国々に行き、その地を自分の足で踏みしめ、この眼で確かめたい。そうすれば、そこに住む人々は映画や新聞、書物以上にたくさんのことを教えてくれるに違いない。
 大森の海を見るたびに、そう思った。

 海を渡って本当に異国の地を踏むまでには、それから20年近くの年月が過ぎていた。行政研修を受けるためワシントンDCに行く途次サンフランシスコ空港に降り立ったとき、イミグレイションの係官が私に、 
「How long gonna stayin’ here?」
と訊ねてきた。
 それを聞いたとき、「いま私は間違いなくアメリカにいるんだ」と知った。海の向こうにある異国アメリカの存在を自分自身で確かめた瞬間だった。
 それからさらに何十年かが過ぎて、海の向こうに憧れていた少年はいくつもの海や大陸を渡って多くの国々に行き、そこの人々と交わりともに仕事をして、この世界にはもはや何の不思議も存在を確かめなければならない国もないと思うようになった。人間は月の裏側を眺め、木星の衛星イオの火山噴火まで確かめるようになったのだから。

 いまベランダ越しに濃い藍色に輝く相模灘を眺めていると、海の向こうの未知なるものに憧れた少年の情熱がふたたびわが身に蘇ってくるのを覚える。
 あのサンフランシスコの空港でイミグレイションオフィサーに出会ったときの記憶、未知なるものを求める旅の第一歩を踏み出した瞬間の感激が昨日のことのように鮮明に浮かんでくる。

 海の向こうには、そして日本にも、まだまだ学ばなければならない未知なるものがたくさんあるに違いない。それを知り確かめるためにこれからも旅を続け、学び続けなければならない。
 そんな思いを募らせる濃藍(こあい)の海がいま眼の前にある。

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