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エッセイ・コラム

箱根駅伝

松谷 隆

 今年の箱根駅伝も大方の予想通り青山学院が優勝した。しかし、往路出遅れた早大が、5区青山の選手が不調で、33秒差でゴールしたときは、早大にチャンス到来と思った。それは6区で経験者の4年生を起用できれば可能なはず。だが、選手変更はなく、チャンスは消えた。あの経験者調子は余程悪かったのだろう。

 10月下旬、早坂隆の『昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝 戦時下でつながれたタスキ』と長い題名の本を買い一気読み。「駅伝」の語源、命名者そして「箱根駅伝」誕生の経緯から始まる。
 1919年10月、高崎線に乗った金栗四三と東京高師(現筑波大)教授野口源三郎の車内での会話から、「アメリカ横断駅伝大会」構想が生まれた。その予選会として、金栗は持論の「長距離走者の育成はロードレース」に沿い、学生参加の大会を考えた。彼らはこの構想を報知新聞に売り込み、資金援助の約束を得た。コースは種々検討の結果、箱根をロッキー山脈に見立て、東京・箱根間と決定した。

 翌20年2月14,5日、4校参加の第1回が開かれ、東京高師が優勝。以来40年まで21回開催された。だが、中国戦線の長期化に伴い、軍部の国道一号線使用許可が出ず、同年秋中止と決定。学生たちの箱根復活の想いは消えず、すべての伝手と知恵を駆使し、2年後に軍部の許可を得た。43年1月5,6日「戦勝祈念」大会として 靖国神社・箱根神社間往復で第22回が行われた。出場校は11校、青山が初参加。
 往路は1,2区が立教、最長の3区で日大がトップ、4区で逆転した慶應が優勝。復路は6区で法政、7,8区は慶應、9区で法政が逆転、しかし優勝はアンカーの好走で日大。復路優勝は専修、青山は3時間弱遅れの最下位だった。

 終了後、「学校の区別なく、みんなで抱き合い泣いて喜んだ、そして戦争に行っても箱根を忘れずに頑張ろうと誓いあった」とある。出場者の多くが出征した。特攻隊で戦死、異国で餓死、特攻隊の誘導役となり復員後結婚しても子供を作らなかった話など胸を打つ話題や、93歳のOBの話もあり、駅伝ファン必読の書だ。

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