作品の閲覧

エッセイ・コラム

ポーランドとの絆

大平 忠

 先日、将棋界で初めての外国人女流プロ棋士が誕生した。ポーランド人のカロリーナ・ステチェンスカさん(25)である。彼女は高校生の頃、ポーランドにある「日本美術・技術センター」で日本の漫画を読んで将棋に興味を持ったのが機縁だとか。このセンターは「マンガ・センター」の愛称でも知られているそうだ。映画監督で親日家だったワイダ監督が、受賞した「京都賞」の賞金で建設したものだという。

 以前、野瀬さんが「トルコとの絆」を800字文学館に掲載されていたのを思い出し、ポーランドと日本との絆について触れてみたい。

 ポーランドと日本に善意と友好の歴史があることを知ったのは、昨年末読んだ『消えたヤルタ密約緊急電』岡部 伸著(注)の中の記述であった。
 この記述によれば、日露戦争にその源は遡る。当時ポーランドは、ロシアとプロシャ、オーストリアに三分割されていた。日露戦争ではポーランド人兵士はロシア兵士として召集された。日露戦争時、日本が敵国の捕虜をジュネーブ条約遵守のもとに手厚く扱ったことは後に世界に有名になった。捕虜の中でもロシアに徴用されたポーランド人兵士には特に配慮したという。松山では、ロシア兵士と一緒になると虐待されるというので、区別して収容所を作った。松山のほか、大阪浜寺、千葉習志野でも同じようにロシア人とは別の収容所を用意した。戦場で、ロシア兵士は戦いが劣勢になると「マツヤマ」と叫んで次々投降した。これらの兵士は皆ポーランド人で、松山での寛容な待遇を知っていたからであった。

 日露戦争後ロシア革命が勃発すると、ポーランド人は祖国独立のため反革命軍の義勇軍を結成しシベリアへと出兵、赤軍と戦った。しかし、義勇軍は戦いに敗れウラジオストックに逃げこみそこで立ち往生した。その彼等を救い出して祖国へ帰還させたのは日本軍だった。そのあと、まだシベリアには多くのポーランド人が取り残されており(数十万人いたという)、赤軍の虐殺が頻発した。ポーランド人は東へと逃げたものの、数多くの子どもたちが孤児となって取り残された。ウラジオストック在住ポーランド人は「孤児救済委員会」を結成し、世界に救済を呼びかけたが複雑な国際関係から応じる国はなかった。日本の外務省だけが反応して、すぐさまシベリア出兵中の日本軍が乗り出し765人の孤児を救出、日本経由でポーランドへ帰還させた。日本では国を挙げて孤児達を遇したという。(日本のシベリア出兵は世界で評判が悪かったが、こういう一面もあったのである)
 それから75年、1995年に発生した阪神大震災で、いち早く駆けつけて救援活動をしたのがポーランドだった。そして孤児となった日本の子どもたち30人を、2回にわたってポーランドへ3週間招待してくれたのだった。これは、トルコがテヘランに取り残された日本人救出のため特別機を出してくれた事例を思い起こさせる。
 1945年2月、スエーデン駐在武官の小野寺少将がポーランド情報網からヤルタ会談密約の驚くべき情報を入手できたのも、両国をめぐる国際関係もさることながら、親日のベースがポーランドの人々にあったことが要因の一つかもしれない。

 実は、アメリカ・オレゴンに住む次女家族と仲良くしていた近所のポーランド人家族が昨年祖国へ帰り、今年次女家族に来ないかとの招待があった。招待に応じるべく計画しているという。娘はアメリカ人に嫁いでいるが日本国籍である。ポーランドと日本との親善に少しでもいい、役に立つことを願っている。

(注)『消えたヤルタ密約緊急電』岡部 伸著 新潮選書
 終戦の年の2月、スウェーデン・ストックホルム駐在武官小野寺信少将はポーランド情報網からヤルタ密約を知り、大本営参謀本部へ打電した。しかし、「ソ連がドイツ降伏後3ヶ月経って日本に参戦する」との緊急電は、参謀本部で握り潰されたのか日本政府中枢へ届かなかった。歴史のifで言えば、ソ連の参戦、アメリカの原爆投下を防ぐ早期終戦が可能だったかもしれない緊急電だった。断腸の思いが湧き上がる岡部伸畢生のドキュメンタリーである。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧