作品の閲覧

エッセイ・コラム

精神の健康診断

大平 忠

「精神の健康診断」の必要性について、亀井勝一郎がある本に書いていた。読んだのは大学時代、50年以上前のことである。なぜか印象に残り時々思い出す。身体の健康診断は、病院で誰しもチェックできる。しかし、精神の健康診断は誰もやってくれない。自分でやるしかない。
 では、自分でどうやって診断するのか、
 一つは、人間は齢と共に精神も老化する。その結果思考能力が低下し、深く考えることができなくなり判断力が鈍る。兆候としては即断する傾向が出てくる。自分の言葉ではなく他人の言葉、流行語を使って判断し、レッテルを貼ってしまう。(亀井は当時からレッテルの言葉を使用していた)
 二つは、集中力が低下する。その結果、一つのことに集中できなくなる。意識が次のことからさらに次のことへとすぐ移っていく。物事に対する突っ込みが不足してくる。
 概ねこういう内容であったと思う。

 これらのことを50年以上前に亀井勝一郎は書いていたのである。昨今の言論風潮にあまりにも当て嵌まるので驚く。政治の場では、先の参議院選挙でも、候補者同士が有権者の前で政策を闘わす場は少なく、相手の揚げ足取りとプラカードの言葉を連呼するだけであった。街頭での絶叫と笑顔と握手だけであった。何をどうやって行うのか具体的施策が聞こえてこなかった。もっとも政策論と選挙は別物だと言われれば致し方ないが。
 情報量が激増した結果、意識は一瞬も落ち着く間がなくますます分散していく。むしろ半世紀前より、亀井流の診断によれば、左右を問わず学者、政治家、一般人おしなべて精神が老化というか劣化していると言わざるを得ない。言葉が命のメディアが乱暴な単語・短語でことを済ませようとし、丁寧な論理の戦いから逃避している。戦後大宅壮一はテレビの出現に警鐘を鳴らし一億総白痴化と言った。今やテレビに加えてネットの世界が、一瞬にして乱暴な単語・短語をばらまいてしまう。これは日本だけではなくアメリカのトランプ演説もその一つで、世界的現象かもしれない。

 安保法制反対のデモのとき、某大学教授の吐いた科白は全国に知れ渡った。「知性」を売り物とする学者が自ら「知性」がないことを暴露してしまった。民主主義に付きもののポピュリズムを、左右の別無く知識人たる学者は抑制の役目を果たす責務がある。言論には穏やかさが欲しい。穏やかさは、深く考え悩むところから生ずるものであろう。民主主義は、自分と異なった意見の者も尊重しなければいけない。一方的な極め付けは自らの浅慮と狭量を証明するようなものだ。山本七平の『イザヤ ベンダサン』には、ユダヤでは全員一致の会議は無効であるという一節があった。自分が間違っているかもしれないという逡巡の心を無くしては、これも「精神の老化」と言うべきであろう。

 昨日、遊びに来ていた12才の孫が帰った。静かになったのはいいがやはりさびしい。この孫は、「おじいちゃん、なぜそうなの、おじいちゃんはそう言うけど、こうじゃないの」とすこぶるうるさい。そこでふと亀井勝一郎の言葉を久しぶりに思い出したのである。孫に倣って面倒だが自分の頭でなぜかと考えるよう努力したい。自戒してこれを書いているのである。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧