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エッセイ・コラム

ベルギーと私

都甲 昌利

 ベルギーの首都ブリュッセルで空港と地下鉄の駅で連続テロが発生、日本人を含む多数の犠牲者を出した。かつてブリュッセルに4年間住んだ私としては欧州各国の思惑によって建国されたベルギーの悲劇との感想を持った。

 私は1982年ベルギーに転勤になった。それまで私はベルギーについては何の知識もなかった。赴任の挨拶としてベルギー国の観光大臣に日本から京都の七宝焼きをお土産に進呈した。ところが「一つではだめだ。もう一つ要る」と言われた。聞けばベルギーは北部のオランダ語圏(フラマン圏)と南部のフランス語圏(ワロン圏)に分かれていて大臣が二人いるというのだ。これを聞いたとたんなんとややこしい複雑な国かと思った。従って公用語はフラマン語とワロン語だ。文書にどちらの言語を先に書くかで議論になるから裏表に書く。

 2010年に総選挙が行われたが、言語問題で北のオランダ語圏と南のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航し正式な政権が541日も存在しないという事態が生じた。これは正式な政権が存在した欧州最長記録であるという。このような状態であるので行政、警察、消防など国民の生活に必要な治安の維持が果たしてできるのだろうかと疑問がわく。テロの容疑者はそこを狙ったのかもしれない。テロの実行犯がベルギーに潜入したとの情報をトルコ政府から受けたがこれが生かされなかった。

 ベルギーが独立国となるのは僅か180年ほど前の1830年のことだ。しかし、その起源は古くローマ時代に始まる。地理的にヨーロッパの中心にあるためオーストリア、スペイン、フランス、オランダの各国に支配されてきた悲しい歴史を持つ。ベルギー人は独立心が強く善良な国民であるが、北アフリカ系の住民と共存せざるを得ない運命にある。私の居た当時でもアルジェリヤやチュニジアの住民が居た。彼等は差別され犯罪が起こると彼らの仕業とみなされる。

 日本とベルギーの交流史を見ると非常に深い関係があることが分かる。一橋大学は日本の経済人の育成の場であるが、この大学はアントワープの商業学校を範として東京商業学校という名で、1885年に建てられた。渋沢栄一は1867年パリ万博の使節団の一員として渡欧した時、ベルギーにも立ち寄りベルギー国王・レオポルド2世に拝謁し日本の工業化を強く勧められた。日本に中央銀行の創設が必要との認識を持った明治政府はベルギーのナショナル・バンクをモデルとして日本銀行を創設したという。

 日本の皇室とベルギーの王室が非常に仲が良いことはよく知られている。私の4年間のベルギー駐在時代には皇太子殿下・美智子妃殿下(現天皇・皇后陛下)が3回来られた。昭和天皇が崩御された時もいち早く葬儀に駆け付けたのもベルギー王室だった。
 観光的にもベルギーにはブルージュ、ゲント、アントワープなど見るべき所が多い。また、ベルギー料理は最高だ。向田邦子さんは「ベルギー料理の美味しさはフランス料理に更に手を加えたものだ」とエッセイに書いている。

 文化・芸術に富んだ国が今悲惨な状態なのは悲しい。

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