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エッセイ・コラム

梅の花ひらく

浜田 道雄

 立春までもういく日もないある日、花屋の店先に並ぶ梅の枝に心惹かれて、一束買い求めた。花は一輪しかついていないが、気にはならない。膨らんだ蕾がいくつもあって、それがまもなく花ひらくだろうと思えたのだ。
 梅の枝は花入れに投げ入れ、家内の前に供えた。梅見に出ることのなくなった彼女にも、春の息吹を味わってもらいたいと思ったのである。
 花入れの向こうには、まだ春の遠い鈍色の海が広がっている。

 昨年の正月は熱海では珍しい雪景色で明けたが、今年は春の日のような元旦を迎えた。そんな暖かな日がその後も続いたからだろう、梅園の梅も糸川沿いの桜も、みな一月初旬には咲きはじめて、二月の「梅まつり」、「桜まつり」までには散ってしまうのではないかと、熱海の人々をやきもきさせた。
 だが、冬はすぐに戻ってきた。十国峠に連なる山並みから冷えびえとした寒風が吹き下りて来て、立春までには熱海の街も海も冬の色に戻っていた。

 数日して暦の上では立春を迎えたが、寒い日はそのままつづいて、春は一向に立ちあがろうとしない。
 そんなまだ寒さの残るある朝、花入れに挿した梅が新しい花をつけた。膨らんでいた蕾がようやく花ひらいたのだ。花が二輪になった梅の枝は朝の光に輝き、我が家に小さな春らしい華やぎを運んできた。
 私はベランダの向こうに広がる海を眺めた。朝日に映える海は、前の日までとは違って明るく、こころなしか暖かな色合いをも含んでいる。春の日々がもう近くまで来ていると教えているかのようだ。

 新しい季節が巡ってこようとしている。私は背伸びして、まだ冷たい空気をふかく胸の奥まで吸い込んだ。
 去年はいろいろなことが身の回りに起きた。大きな別れがあり、それを心に受けとめようと多くの時間を費やして、もがく日々がつづいた。だが、その日々も春が来るのとともに、ようやく過ぎようとしている。新しく花ひらいた梅の花は、そう思う私の心を映しているのだ。
 梅の枝と並んで、家内もまた同じ想いなのだろう、穏やかに明るく輝く海を見つめている。

 さらに数日が経った。梅はまた新しく花をひらき、日を追うごとにその数を増した。一輪また一輪と花がひらくたびに、梅は暖かな春の日が一歩、一歩と近づいて来ていると、その足音を伝えている。

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