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エッセイ・コラム

邦人力士の優勝に思う

内田 満夫

 大相撲初場所で琴奨菊が優勝を決めた瞬間、国内各地が喜びに沸いた。翌日の新聞各紙は一面トップ扱いでこれを報じる。手放しで祝意を表したいところだが、10年ぶりの邦人力士の優勝には考えさせられることがいくつかあった。
 ひとつは邦人実力力士の不在だ。過去に抜群の強さを見せて時代を画した邦人大力士が何人かいる。私の知る限りでも、あの大鵬なら外国人力士たちと堂々と渡りあっていたはずだ。千代の富士ならモンゴル勢に劣らないスピードと技の切れで、彼らと名勝負を繰りひろげていたに違いない。それに匹敵する力を持つ邦人現役力士が今いないのだ。これが10年のあいだ外国勢の席巻を許してきた原因である。
 もうひとつは勝負の決め手の変化である。相撲の極意は「押し」と言われてきた。それは巨体の力士には狭すぎる直径15尺の世界の勝負だからだ。そこでは体重とそれを生かす押しの力がものをいう。ところが組み相撲という強敵が現われた。モンゴル相撲は土俵のない投げ技中心の世界だから動きのベクトルがまるで違う。取り口に幅と奥行を感じるし、体幹の靭性も並ではない。邦人力士がモンゴル勢に対して分が悪いのは、格闘技DNAの差だと言えなくもない。
 最後に、外国人が幕内力士の4割を占めるまでになった大相撲の「ウィンブルドン化」だ。この世界選手権化の様相は今後ますます強まるだろう。大関止まりで精細を欠いている邦人力士の不甲斐なさを嘆いてもしかたがない。今後は世界最強の力士たちが、多彩な技と取り口でしのぎを削る勝負を楽しむ時代なのである。
 琴奨菊には引退が脳裏をかすめる深刻な危機があったと聞いている。それをくぐりぬけての初優勝だから感慨も一入だろう。これからは儲けものの相撲人生と割り切って、のびのびと取ったほうが良い結果につながりそうな気がする。しかしそれは無理な相談というものか? 綱取りへの期待とプレッシャーが間違いなく襲いかかるはずだからだ。

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