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エッセイ・コラム

東戸塚30年

大平 忠

 いよいよ九州への引越しが近づいた。住み始めて33年になる東戸塚ともあと二(ふた)月足らずでお別れである。ここ東戸塚は、昭和55年に横須賀線の保土ヶ谷と戸塚の両駅の間にJRの駅ができてから開けた街である。駅ができて間もなくの頃、私たち家族は駅前のマンションに鎌倉から引っ越して来た。まだ駅前には何もなかった。建物はぽつぽつ立ってはいたがビルは一つもなく、私たちの入居したマンションが唯一大きな建築物だった。駅前の原っぱにたぬきが出たこともある。日曜日には農家が野菜を持ち寄り朝市が立った。近所を散歩するとまだ藁葺きの農家を見ることができた。晴れた日はどこからも富士山がきれいに見えたものである。
 この界隈一帯は、神奈川のチベットと言われていたとか。横須賀線の保土ヶ谷と戸塚の駅間の距離はたいへん長い。しかし、小山とか雑木林(今でも原生林として保護されている)や畑が多く人家が少なかった。大正時代にも駅建設の計画があったというが関東大震災で頓挫したという。昭和の30年代になっても不便で拓けていなかったから、戸塚カントリー、横浜カントリーなどのゴルフ場ができたのだろう。
 30年経った今、駅前は、デパート、タワーマンション、オフィスビル、スーパー、学校、商店、飲食店と、ひしめいており空き地も緑も消えてしまった。緑は僅かに街路樹と駅から三分のところの神社に残るだけである。富士山も街中から眺めるのは難しくなってきた。

 私の子どもたちは、ここへ来た時は小、中、高校生だった。ここから三人とも大学まで通い、卒業して社会人となり巣立っていった。やがてそれぞれ結婚して子どもを持つ親となった。30年で一世代若返ったのである。
 同じマンションの隣人たちも私たち夫婦とよく似た経過を辿り、お互い老夫婦になってしまった。階段や坂道がだんだん苦痛になってきた。昨年は仲良くしていた家のご主人が亡くなった。

 景色も人も大きな変化を遂げたが、一つ変わらないものがある。家から7、8分のところに、やや小高くなった丘陵が東西に伸び、その尾根に旧東海道が昔の面影を留めている。そこから眺める富士の姿は30年前と同じく見事である。この冬は暖かく、晴れた日にはときどき出かけて遠くに見える富士山と名残りを惜しんだ。東戸塚の街は今後も変化し続けていくことだろう。しかし、この旧東海道から見る富士の景色だけはいつまでも美しく残っていて欲しいと願っている。

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