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エッセイ・コラム

空の思想 2.この世の一切の現象は夢、幻

斉藤 征雄

 空の思想とは、あらゆるものが固定的な実体をもっていないと見なす思想である、と解説される。固定的な実体をもたないとはどういう意味だろうか。

 空の思想は主として般若経典で述べられている。般若経典の中の初期の段階に書かれたものに金剛般若経があるが、この経典では、空という言葉を使わずに空の思想を述べているといわれる。先ず、金剛般若経を見てみよう。
 金剛般若経は、空の思想に立って実践の心がけを説くが、そのキーワードは「とらわれのない心」である。
 大乗仏教を実践するのは菩薩だが、菩薩が自分は生きとし生けるものを悟りに導くのだと思うならば、それはとらわれの心だという。また菩薩は布施を行う場合にも、自分が何かを人に与えるという思い、すなわち私が、誰に、何をしてやったという三つの念を抱くのはとらわれがあるから。その思いから脱して清らかな境地になることが大切である。つまり仏道の実践において、仏道というものにとらわれるないようにと説く。
 とらわれない心は、仏の教えそのものにもあてはまる。たとえば、河を渡るのに必要な筏は河を渡ってしまえば不要になる。それを後生大事に持ち運ぶのは愚かである。それと同じで、仏によって説かれた教え、真理(法)といえども、それにとらわれることはよくない。法をさえも捨てなければならない。ましてや法でないものはなおさらである。
 その他、色声香味触法つまり人間の認識の対象となるすべてのもの(六境)に、とらわれない心が大事なのだ。「応無所住而生其心(まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし)」なのである。住するとはとらわれること、其の心とは清浄心を意味する。つまり、何ものにもとらわれないままの清浄心を保ちなさい、ということである。
 そして、仏にさえも悟りの境地というものはない。ましてや悟りを目指す菩薩が人びとを導くという思いを起こしたならばもはや求道者とは言えない。このような逆説的な言い方で、何かを実体としてとらえてそれにとらわれることを戒める。
 最後に、この世の一切の現象、つまりわれわれが存在すると考えるものは、夢、幻、泡、影、あるいは露、電光のようなものである、と結ぶ。
 とらわれのない心ということは執着を離れるという意味だろう。とらわれず執着しなければ、この世のすべての現象は、夢、幻のように見えてくる。それが空の意味するところということか。

(仏教学習ノート24)

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