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エッセイ・コラム

俺おれ……

西川 武彦

 一週間ほど前の午前11時過ぎ、食堂の電話が鳴った。連れ合いは不在である。隣りの四畳半でパソコンを睨めていたご隠居が、足を縺れさせながら、やむなくこれをとる。
「もしもしDだけど…」と、先方。長男の声だ。「Yさんはいないの?」と、老妻の名前を、いつもの調子でいう。「いないけど、何だ?」と、ご隠居。「あのさあ、コンビニで用を足していたら携帯が鳴ってね、うっかり鞄を店の中に置いて店の外で喋っていて、戻ったらそれがなくなっていたんだ…。会社の採用関係の書類が入っていてね。警察に届けたら、俺おれ詐欺のこともあるから一応、両親に連絡するとか言っていた。連絡あったらよろしくね…」と、言う。訊けば、財布やカード類も鞄の中とか。
 帰国子女で、海外勤務も長く、隙がないはずの彼なのに、と一瞬戸惑ったが、声色、喋り方、母親の愛称、すべて正しい。彼は大手商社の採用担当部門の責任者と聴いている。大事な書類が盗まれるなんてやばいではないか。でも『俺おれ詐欺』かもしれない。会話を引き延ばして探ったが、決定打はない。とにかく電話を切って、彼の嫁さんに電話を入れた結果、そんな連絡はないことが判明し、伝え聞いた長男からも、間をおいて電話が入って一件落着となったものの、手口は益々巧妙になっているようだ。息子の職業、家族関係、家族の愛称・呼び方、声、喋り方、etc. を、心憎いまでに心得、 いきなりお金を要求することもないからややこしい。
 現金は、お年玉葉書で当ったミニサイズの赤い郵便ポストに貯めた一円玉しか置いていない我が家だから問題ないが、箪笥貯金で百万、千万を家に置いている一人暮らしのリッチだったら、簡単に騙されるかもしれないと、ご隠居は呟いている。
 アメリカからの帰国子女で、今でも日米を棲み分けている又従妹にそのことを話すと、多民族の共生がベースのあちらでは、そんなことはありえないという。「俺おれ」は、狭い島国で、日ごろ外敵に晒されずにきた日本民族特有の甘い「文化」なのかもしれない。
 東京五輪の年に2000万人と想定した訪日外国人は、今年は想定外に増加して、早くもそれに近い人数を記録するらしい。国家財政上は嬉しい話だが、街中に溢れる彼らに混じって散策するご隠居は、「俺おれ……」を思い出しながら、この国の行く末をあれこれと思案している。

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