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エッセイ・コラム

仏教の新たな流れ 1.仏塔信仰

斉藤 征雄

 紀元前1世紀頃のインド。すでにブッダが入滅して300年を経ていたが、仏教は多くの部派に分裂しながらもほぼインド全域に広まり一部中央アジアにも及んでいた。
 その頃の部派教団は説一切有部が最も有力だったが、王侯貴族や大商人から土地の寄進を受けて広大な荘園をもち、経済的には極めて裕福だったという。出家者達は静かな環境の中に僧院を建てて定住し、学問と瞑想に専念した。そしてブッダの生前の教説を研究し、仏教の教義を理論的に体系化することに没頭したのである。(アビダルマ)
 出家者の僧院での生活は、厳格な戒律が義務付けられ、悟りを目指す修行の道も長く複雑な階梯が決められていた。出家者の生活は一般社会と隔絶していたのである。したがって部派の出家者には、大衆を救済するという意識はまったくなかったと考えられる。
 彼らは自分だけが煩悩を断ち切り、悟りを開くことを目指した。しかも、目指す悟りの内容に変化が現れたのである。ブッダの教えは、万人がブッダと同じ仏になることつまり成仏することを説いたが、部派(有部)の出家者達は、出家といえども凡夫が、ブッダと同じ偉大な仏になることを目指すのは不遜であると考えた。その結果、仏の一歩手前の阿羅漢になることが修行の最終目標とされ、ましてや在家のままの修行では阿羅漢になることすら難しいとされたのである。

 こうして、在家信者は日常生活の規律を守り僧院に経済的な援助をして功徳を積んでも、仏教の本質である悟りの世界からは実質的に締め出されることになった。そうした中で一部の在家信者から新しい動きが生まれたのは当然ともいえる。
 その一つが仏塔信仰である。
 ブッダは死に際して、出家の者がブッダの葬儀に関与することを禁じたので、ブッダの葬儀は一般の信者によって行われた。遺骨は八つの部族に分け与えられてそれぞれに仏塔が建てられた。これが仏塔の初めであるが、その後アショーカ王によって各地に建立されたほか、ブッダが悟りを開いた地などいくつかの聖地にも建てられた。こうした仏塔に信者たちが巡礼し金銀宝物や花、食物がそなえられて崇められ供養されるようになっていった。そして部派の出家者は仏塔に関与することを戒律で禁じられていたので、仏塔の管理運営は在家の信者がこれにあたった。
 こうして部派の出家者僧院とはまったく別の形で、在家信者による仏教活動の場が生まれた。在家信者は、仏塔に巡礼参拝して救いを得ようとしたのである。

(仏教学習ノート⑰)

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