作品の閲覧

エッセイ・コラム

小さな旅 ―ヨーロッパの風景

西川 武彦

 喜寿過ぎて傘寿に迫っているご隠居の海外旅行は、年一がやっとですが、1960年代に始まった旅行歴、特にヨーロッパ各地を思い出しながら、月一か二回、映画で小さな旅を楽しんでいます。
 場所は、ほぼ渋谷の文化村に決っています。家から30分以内、電車賃は往復で300円足らず。シニア料金は1100円、特別企画でも1300円だから、計1500円もあれば数時間で欧州の旅が手に入るのです。「機内」に替わる「館内」の指定席は、両隣と前が空席のところを入念に選びます。食事とバーはありませんが、蓋付きの小さな瓶に入れた赤いもので、秘かに舌を湿します。
 今週は、1964年のフランス映画「柔らかい肌」(La Peau Douce)を観ました。監督はフランソワ・トリュフォーで、1950年代から60年代に大ヒットしたヌーヴェルヴァーグ・シリーズの一つです。
 講演旅行のため、パリからリスボンに旅する44歳の著名な評論家が、機内で見初めた22歳のスチュワーデスと宿泊先のホテルで再開、やがて恋仲になります。男は、38歳の妻と幼い娘がいるブルジョワ。不倫は深みにはまり、不器用で優柔不断な男は、両手に花とはいきません。最後は……。同監督が敬愛するヒッチコックのタッチが散りばめられています。
 映画はモノクロで、今では貴重な35mmフィルム。セピア色の画面が郷愁を誘います。
 パリからリスボンへの飛行機はB707でしょうか。外付けのタラップ、機内でタバコを吸う乗客、スチュワーデスのスカートの長さ……、どれもこれも、筆者が航空会社に入った1960年頃を懐かしく思い出させてくれます。ジェット機が飛び始めた頃です。
 リスボンやパリのホテルもセピア色です。深夜、客室の前に、泊り客の靴が不気味にずらりと並んでいます。ジャバラのエレベーター。チップのやりとりの風情。ホテルの部屋はオートロックでない旧式な鍵をガチャガチャ…。 黒いダイヤル式電話、道路脇で車をぶつけながら出し入れする。当時パリでよく見かけた風景です。
 主人公は、講演旅行を恋人との逢瀬に利用します。隣に「柔らかい肌」がないのが寂しかったですが、自分が不倫する主人公になったつもりで、次の展開を描きながら観ていました。小さな旅です。

 週末には、風景画で欧州を一周しました。安野光雅さんという、画家、絵本作家、装丁家として幅広く活躍している方がおられます。1963年に初めて欧州に旅して以来、同氏が数えきれない取材旅行などで描いた水彩、鉛筆、インクを使った作品が百点余り、新宿の損保ジャパン日本興亜美術館に展示されていました。題して「旅の風景、ヨーロッパ周遊旅行」。
 同氏は、筆者が、現役時代のある時期、制作に関わった機内誌「ウインズ」に、長年にわたって風景画と旅のエッセイを載せて下さいました。淡い緑色を上手く活かし、夫々の土地の人々の動きを巧みに組み入れ、旅情が溢れています。その遊び心もある独特の画風が気に入って、現役時代は会社の部屋にも飾っていました。懐かしい。これも小さな旅です。
 次はどこに出かけるとするか。ご隠居は、ネットで探りながら、旅先を浮き浮きと探しています。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧