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エッセイ・コラム

戒と律

斉藤 征雄

 仏教の実践論には、「八正道」の他に「三学」の教えがある。三学とは戒学、定学、慧学のことをいう。
 戒は、戒めを守って日常生活を正すこと、定は、精神を集中して精神統一をはかる方法を修すること=禅定ともいう、慧は、正しいものの見方つまり智慧を身につけることである。智慧とは煩能の本質(渇愛)を客観的に観察する智慧で、これを獲得することが最終目的であるが、そのためには戒と定も欠かせない要件とされるのである。
 戒、定、慧は八正道の中の正命(正しい生活)、正定(正しい精神統一)、正見(正しい物の見方)に対応しているので三学は八正道をさらに凝縮したものということができる。

 ここでいう戒は、日常生活の規範のようなものである。最も基本的な項目に五戒があるが、生き物を殺さない、盗みをしない、淫らな行いをしない、偽りを語らない、酒を飲まない、のがその内容である。意味はわかり易いが実行は簡単ではない。
 キリスト教の十戒も内容は似ているが、決定的に違うのはキリスト教の場合は神の命令であるのに対して、仏教の戒は仏道修行者の自立的な戒めである。在家信者は仏教に帰依すると自発的に五戒を自らに誓うのである。したがってそれを破ったとしても自分が挫折したことにはなるが、誰かから罰を与えられることはない。 

 一方、出家者は僧伽(サンガ)で修行する。三学、八正道を修することはもちろんであるが、その他に共同生活を営むための規則=律があってそれを守ることが義務付けられる。
 律の最も基本的なことは、性行為をしない、盗まない、殺さない、嘘をつかない、の四つで五戒の場合と大差がないが、その他に、律には生活全般の細かいことまでのきまりがある。男子の出家者で二百五十、女子は三百五十項目にも及ぶという。そして律に違反すれば罰があたえられ、最も厳しい場合にはサンガから追放されるのである。

 このように戒と律はもともと別の概念であるが、その後三学が経、律、論の三蔵と一体として考えられるようになり、戒学が律蔵に吸収されて戒と律が一体化した。しかも合成された戒律は主として律を意味する内容で使われるようになったといわれる。
 自己自身に救済の原理をもつ仏教において、戒は本質的に重要な意味を持つが、律と合成されて戒律と使われるようになって戒の本来の意味が薄れているといえなくもない。

(仏教学習ノート⑪)

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