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エッセイ・コラム

『春琴抄』に観る愛と謎

清水 勝

 今年は谷崎潤一郎の没後50年。関係のある文学館等でイベントが開催され、書店には特別コーナーが設けられている。
 谷崎の作品で印象深いのは『春琴抄』である。あたかも『鵙屋春琴伝』によるノンフィクションかと思わせながら、語り手を通して、佐助の春琴への愛が描かれていく。その愛とは何なのかを観てみる。
 佐助は鵙屋に丁稚奉公をしている身であり、本来、お嬢様は愛の対象になり得なかったはずだ。習い事に同行する道すがら、自分だけを頼ってくれるお嬢さんに忠実に務めを果たす喜びから「忠実愛」を感じる様になる。時には幼児の時に失明したお嬢さんへの同情の気持ちが生じたことだろう。そこには「憐愛」の心があったはずだ。それを見透かされてお嬢様から厳しく叱責され、その辛さに耐えたのは「辛愛」の成せるところだ。
 やがてお嬢様から習い事を教わるのだが、そこには弟子佐助の一方的な思い込みによる「師愛」があっただろう。習う中で厳しい注意や意地悪までされるが、その心地良さから徐々に「マゾ愛」に変じていくのだ。二人だけで住むようになった頃からは「占有愛」を感じ出したはずだ。その究極の形として『春琴、命!』との思いが佐助の全てであり、昂じて「春琴フェチ愛」になっていく。
 この具体化が、春琴が暴漢に襲われ熱湯による火傷から醜い顔となり、それを見たくない佐助は以前の美しいお嬢様だけが残るようにと自ら目を潰してしまう。
 異常な愛ではあるが、執筆当時の谷崎は二度目の妻・丁未子がいながらも船場豪商根津商の御曹司根津清太郎の妻・松子との関係が深まっていた。
 その愛は『谷崎純一郎の恋文』(千葉俊二著)によれば、松子に全てを捧げるという恋文なのだ。
「御寮人様の忠僕として、もちろん私の生命、身体、家族、兄弟の収入などすべて御寮人様のご所有となし、おそばにお仕えさせていただきたくお願い申し上げます」

『春琴抄』の佐助は、谷崎の女人崇拝そのものである。

 もうひとつ『春琴抄』の興味は、佐助が目を潰す原因となった春琴に熱湯を浴びせた犯人はだれかである。
『春琴抄』には幾人かを挙げ、早晩春琴に必ず手をくだす状態だったと書いている。

①雑穀商美濃屋九兵衛の倅・利太郎 ②北の新地辺に住む某少女の父親 ③商売敵である検校か、④某女師匠 の4人を具体的に書いている。
 春琴が暴漢に襲われた夜の佐助の説明では、「春琴の閨の次の間に眠っていたが物音を聞いて眼を覚ますと(中略)『わては浅ましい姿にされたぞ、わての顔を見んといて』」とある。そうだとすれば隣の部屋にいる佐助が賊に気付くはずである。賊が熱湯の鉄瓶を提げて佐助に気付かれずに侵入するのは難しく、内部犯行説が考えられる。
 では誰が犯人か。佐助か、春琴か。

佐助の犯行説の理由は、

  1. ①春琴の美貌のイメージをいつまでも持ち続けたいという佐助のエゴイズムによる説。
    (反論)それならば春琴の熱湯を浴びせた醜い顔のイメージが美貌以上に佐助に残ってしまう。
  2. ②佐助がマゾからサドへ転化しての犯行だとする説。
    (反論)しからば、眼を潰した後以降には一切サド的快楽は得られなくなってしまう。
  3. ③佐助の積年の恨みから対等の関係へと移行するために犯行に及んだとする説。
    (反論)もともと佐助は春琴に仕えることに無情の喜びを得ており、恨みがあったとは思えない。

 一方、春琴の自作自演説は佐助をいつまでも自分の傍で仕えさせたいとの説明は付くものの、佐助が視力を失う行動に出るかどうかの保証のないまま春琴が賭けに出るとは思えない。
 佐助でもなく、春琴の自作自演でもないなら犯人はだれか、謎は深まるばかりだ。私の結論は事故説である。
 事故状況は、鉄瓶の傍で二人が戯れていた。その際に鉄瓶が気になった佐助はその鉄瓶を除けようとした時に、春琴が身体を預けてきたため、思わず佐助の持つ鉄瓶の口から熱湯が零れ、春琴の顔に掛かってしまったのだ。
 佐助は申し訳ないという気持ちから、いや、それ以上に春琴の厳しい叱責から逃れるために、已む無くその償いとして視力を失くすことを約束したのだ。春琴としても自分の悪ふざけも原因の一つであり、このあと佐助と同じ環境で、同じ気持ちになれる心の結びつきへの期待から、それを受け入れたのである。
 根拠としては、事故後に春琴は犯人捜しをせず、佐助自らが眼を潰したことに満足している様子が窺えるからである。春琴の性格からすれば、にっくき犯人にもっと拘っても不思議ではないのに、意外にもあっさりと犯人捜しを放棄し、あたかと春琴と佐助が永久に愛し続けて生きていく様子さえも想像させてくれる。
『春琴抄』は愛の表現と共に、永遠の愛への暗示さえも示しているのではないか。

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