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エッセイ・コラム

ブッダの悟り 2.諸法無我

斉藤 征雄

 自我とは何か。自分の心というものは確かにあるが、それがどこにどういう形であるかをはっきり認識することは難しい。何かしら意識の主体のようなものを漠然と想像するが具体的には捉えられない。そして、これが自分だというものを自覚したとしても、自覚した瞬間にそれを自覚している本当の自分とは別のものになってしまう。
 しかし人間は誰しも自分つまり自我があることを疑わない。一切を疑ったデカルトさえも「我思う 故に我あり」といい、すべてのものの存在を疑う自分の存在だけは否定できなかったのである。

 2500年前のインドでも自我が問題になった。ウパニシャッド哲学では、人間個体の本質をアートマン(自我、霊魂)といい、自我は死んだあとまでも霊魂となって生き続ける実体のある存在と位置づけた。それに対してブッダは、自我を肉体や感覚、意識の統一態ととらえ、それは実体をもたないから無我であると説いたのである。
 しかし一方で、初期の仏典にはブッダの言葉として「自己のよりどころは自己のみである。自己の他にいかなるよりどころがあろうか」と述べて、自己形成の必要性を説いているので、ブッダ自身も自我そのものを否定したのではないといわれる。
 それではブッダの説く無我とは何か。それは「自我がない」という意味ではなく「自我があるという考え方」を否定するものだと解説される。その考え方とは、ウパニシャッド哲学の考え方を指している。ブッダは自我の存在を認めつつも、そうしたバラモン的自我観を否定しているのである

 諸法無我という。法はここでは存在するもの全般の意味である。とはいえ、無我もまた無常と同じように人間に焦点が当てられた言葉であるのは間違いない。ブッダは、人間を五つの構成要素(五蘊という)に分けて、それらのいずれにも恒常不変の実体をもつ自我というものはない、という方法で無我を説明した。(五蘊無我説)
 自己に不変の実体があれば、自己の変革はできないし変革によって自己を向上することもできないことになる。悟って成仏することは自分が変わることを意味する。それを目指す仏教にとって、無我は非常に本質的意味において重要なのである。

(仏教学習ノート⑥)

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