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エッセイ・コラム

坂の上に雲は流れ

平尾 富男

 小学校入学したての昭和25年ごろから凡そ30年の間、私は東京の北区西ヶ原という町に住んだ。移り住んだ当初は、日本橋から王子の間を結ぶ本郷通りを路面電車が走っていた。通りから数百メートル奥まった場所にあった自宅に居ながらにして、通り沿いの商店の間から走るチンチン電車(当時そう呼ばれていた)を垣間見ることができた。
 その本郷通りは、現在の東大赤門前、上富士を経由し、更に駒込から坂を下って霜降り橋を抜けて、再び坂を上がったところで旧古河邸公園に沿って左に九十度曲がる。そして、丘陵の尾根伝いに飛鳥山を巡って音無し川にぶつかり右に曲がって王子に出る。

 司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描写する飛鳥山は、「山といっても丘のようなもので、ふもとを音無し川がめぐり、頂を歩けば荒川の流れをのぞみ、国府台や筑波山を見ることが出来る」とある。ちなみに、田端の方からこの丘陵の背を、飛鳥山を通って王子に降りる道路は、前述の本郷通りに旧古川庭園で吸収され、飛鳥山で新宿・池袋方面から川越へ伸びる明治通りと合流する。
『坂の上の雲』は、農耕文化中心の閉ざされた東洋の島国が、近代国家の仲間入りをした明治維新以降から日露戦争までを描いた長編歴史小説である。先進国に追いつこうと猪突猛進していた新生日本のこの時期を、怒涛のごとく生き抜いた三人の男たちの生涯を介して映し表した。
 日露戦争においてコサック騎兵隊を破った日本陸軍騎兵隊の創始者である秋山好古、バルチック艦隊を日本海に壊滅せしめた海軍参謀秋山真之の兄弟、そして近代日本文学の世界に巨大な足跡を残した正岡子規。この伊予松山出身の三人の生き様を通して、日本の歴史の中でも極めて特異な明治という昂揚の時代を検証している。
 四国松山藩の下級武士の家に生まれた秋山好古が、わずか数え17歳で小学校の教員になり、やがて授業料の要らない学校に行けるという理由で上京して、生まれたばかりの士官学校の試験を受ける。そのときの試験問題は、「飛鳥山に遊ぶ」という題で一文を物すことだったという。飛鳥山は、当時は勿論のこと、それからおよそ150年後の今に至るまで、上野公園・隅田川堤と並んで、桜の名所であり続ける。しかし、伊予の田舎から出てきたばかりの好古の知る由もなく、「飛鳥、山に遊ぶ」と読み替え、故郷道後の湯の里山に飛ぶ鳥を連想して解答を書き上げたそうだ。
 明治維新の直前に、秋山兄弟と同じ伊予松山に生まれた正岡子規は、好古の9歳下の弟真之と既に松山の中学校で親交を深めていたが、明治16年、数え17歳で東京に出た。程なく兄を追って真之も上京。子規も真之も東京での書生時代に、勉学と趣味・娯楽の世界で大いに青春を謳歌した。その子規が最後に住み、そこで病気により志半ばで生涯を終えたのは、根岸の鶯横丁であった。
 秋山真之が、既に亡くなっている子規の遺族をその根岸に尋ねたのは、自らが参謀を勤めたバルチック艦隊壊滅という奇蹟的な日本海軍完全勝利の凱旋を終えて間もなくのことであった。結局は遺族である母親と妹には会わず、独り静かにその家の前から立ち去る。
 そして子規の菩提寺である田端の大竜寺まで3キロの道のりを歩いて、墓前に寂しく佇むのだった。司馬遼太郎は書いている、「道は、飛鳥山、川越へ通じる旧街道である」。
 文春文庫の新装版に解説を書いた島田謹二氏は、「この物語は『坂の上』に浮かんだ『雲』を目指してか、雲にひかれてか、上ってゆく若者達の群像を中心にすえている」と感慨を込めた。日本海海戦の凱旋参謀として皇居での儀式に臨んだばかりの秋山真之が、今は亡き同郷の盟友・正岡子規の菩提寺を田端に訪れたとき、この街道の坂の上に見た雲の寂しい心象こそ、戦争の空しさと遠くなった明治への思いを込めた司馬遼太郎の鎮魂の詩なのであろう。

 平成15年の冬、飛鳥山と田端のどちらにも近い西ヶ原の実家で私は母を亡くした。町屋の火葬場で母と告別し、お骨を抱いて田端からこの街道を通って実家に戻った。そして、ハイヤーの窓から街道の坂の上に浮かんだ雲を見上げ、この大抒情詩の終幕を思い出していた。そして、母の死と共に故郷である西ヶ原も、頭上に流れる雲に乗って遠くへ去ってしまうかのような想いに浸った。
 私は今、横浜の北西部に住んで久しい。

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