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エッセイ・コラム

カルピスのポスター誕生物語

大平 忠

 草津温泉にほど近い草津「道の駅」の2階に、資料の整った「ベルツ記念館」がある。エドヴィン・フォン・ベルツ博士は明治初期に来日し、29年間にわたって日本の医学の基礎を築いた治績で有名である。それに加えて草津温泉の医学的効能を世に広めた草津の町の恩人でもあった。草津町はベルツ博士への感謝の気持をこめてこの記念館を作った。
 この記念館で入館者に説明をしている鈴木正子さんというボランティアの方がいる。素晴らしいガイドさんである。これは、鈴木さんから聞いたベルツ博士にまつわるエピソードの中の一つである。
 ベルツには花という日本人の妻がいた。ベルツは東大医学部を退官後、ドイツへ花と子ども二人を連れて帰国した。しかし、ベルツが亡くなった後子どもたちの成人を待って、花は故国へ帰り老後を過ごした。
 帰国して、花はある会合でカルピス創業者の三島海雲と出会う。このとき花は、第一次世界大戦後のドイツ経済の破綻によって、画家やデザイナーたちが貧困にあえいでいる状況を話した。三島はこの話を聞くや持ち前の義侠心を発揮した。カルピスのポスター(当時ポスターという言葉はなくビラとか看板絵と言われていた)のデザインをドイツで公募しようと企画する。公募が行われた結果ドイツから多数の作品が集まり、この中から一等、二等、三等が選ばれた。ところが三島がポスターとして実際に取り上げたのは三等の作品だった。この作品がネクタイ姿の黒人がストローでカルピスを飲む我々の長く親しんできたポスターとなった。公募作品の多くは、日本各地で展覧された。多くの観客を集めた入場料収入も、入賞者への賞金と共にドイツの美術界へ寄贈されたという。
 従来の日本の広告の絵は、美人が商品を持ってにっこりしているというワンパターンであったが、カルピスのポスターの登場を期に大きく変革した。日本広告近代化元年と称されるようになったとか。
 20世紀末、人種差別だということでこのデザインの使用は廃止になった。当時、このポスターが消えることを惜しんだ人が多かったと記憶している。
 鈴木さんは、ベルツ夫人花の生涯を調べているうちにこの事実を見つけたそうである。昔の歴史の中に散りばめられた人知れぬエピソードは、鈴木さんの熱心な調査で我々も知るところとなった。
 鈴木さんが今後もベルツにまつわる面白い埋もれた事実を発掘されたらまた聞きに行きたいと思う。

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