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エッセイ・コラム

「五日市憲法草案」の里

大平 忠

 明治13年、自由民権運動は全国的に高潮していた。11月に開催された国会期成同盟第2回大会において、翌年に憲法草案を定めることが決議された。これを受けて各地区民権グループで草案作りが開始された。奥多摩地区においても、現在「五日市憲法草案」と称されている草案が作られた。この草案は明治14年前半に作成されたが、その存在が明らかになったのは昭和43年であった。東京経済大学色川大吉教授が 五日市の山間に残る崩れかけた旧深澤家の土蔵で発見したのである。87年間眠っていたのであった。
 当時、全国で作られた私擬憲法といわれる民間の憲法草案は40幾つあるが、200条を超すものは、土佐の植木枝盛のものとこれしかない。また、基本的人権についての条文が精緻周到な点でも双璧である。

 4月中旬過ぎ、五日市を車で訪れた。東京都あきるの市五日市町の中心から南へ向かうと、道は次第に登り坂となり山間に入っていく。約4キロ走って目指す目的地に着いた。「深澤家屋敷跡」である。古い門だけが残りくぐり戸を開けて入った。少し登ると屋敷跡の広い原っぱに出る。見渡すと原っぱの端に2階立ての土蔵がひっそり立っていた。屋敷跡の横は崖となり見上げると一族の墓であろう。立派な墓石が並んでいた。
 幕末から明治の初期、 深澤家は材木を扱い名主として栄えたとか。深澤家親子は開明家で近在14か村から有志を集めて明治の新しい世について論じ合ったという。仙台から小学校教師として招いた千葉卓三郎が深澤家の後援の下西欧事情を研究し憲法草案作成の中心となった。
 このひなびた不便極まりない山里に集まり、国の未来について論じていた人々がいたとは奇跡のような思いがする。「五日市憲法草案」の人権への思いは、昭和21年日本国憲法によって漸く叶えられた。草案作成から65年経っていた。

(平成26年5月3日)

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