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エッセイ・コラム

カウラ捕虜収容所

横内 則之

 数年前、定年を機に、妻に誘われて『地球一周の船旅』に出た。客層は老若男女様々で、その中に、戦時中にマルレという小型特攻艇の設計に携わったというご老人がいた。シドニーに寄港した折、兄が収容されていたという『カウラ捕虜収容所跡』に、どうしても行きたいとのことで、妻と共に行くことにした。それを聞いた老婦人から、心をこめて折ったひと束の鶴を、是非とも届けてほしいと託された。タクシーをチャーターして、延々300キロ、牧場やユーカリの丘陵地を抜けて、目的地に着いた時はお昼を回っていた。
 そこは、十字路を中心に、商店、民家が立ち並ぶ小さな田舎町だった。その郊外に、枢軸国の『捕虜収容所跡』があり、今は、看板と構築物の残骸が残るだけで、野生のカンガルーが飛び跳ねる荒れ地となっていた。ここに、日本兵1104名とアフリカ戦線で捕虜となった多くのドイツ兵、イタリア兵が収容されていた。日本兵は、重傷を負ったり飢餓や病気で止む無く捕虜になった者ばかりであった。警備は緩やかで、野良仕事やレクレーションもかなり自由で、傷病兵への介護も行き届いていた。イタリア兵などは、住民と交流し、ケーキやワインなどを作って楽しんでいたそうである。
 所が、戦局の悪化とともに、過酷な戦場から送り込まれる捕虜が増えるにつれ、日本兵捕虜の間では、『生きて虜囚の辱めを受けず』との精神論が支配的となり、将校・下士官と兵を分離するとの通告を受けたことがきっかけで、集団脱走を企てることになった。もとより、逃げられるあてはなく、後方撹乱と、敵弾で死ねば名誉の戦死になれるとの思いが募ってのことである。1944年8月5日の夜半、突撃ラッパと放火を合図に、バットや手製のナイフなどを武器に一斉に決起したものの、機銃掃射を受け、235名が死亡、108名が負傷し、豪州兵も4名が死亡するという大惨事が起こった。それでも、300余名は脱出したが、結局、9日間で全員が逮捕された。中には、食事を出して、かくまってくれた農家もあったとか。
 この事件は、不名誉な事件として、戦後39年間、日豪共に秘匿されて、報道されることはなかった。しかしながら、不憫と思った地元住民たちによって、日本人墓地が作られ、豪州退役軍人会がこれをお守りしてくれていた。整然と並ぶ石板の殆どには、一目で偽名と分かる墓碑銘が刻まれており、死んでなお家族に迷惑をかけまいとの心情が切なかった。花束と線香を手向けてお参りしていると、こんな遠くの人知れぬ異郷で無念の最期を遂げた兵士の声が聞こえるようだった。その隣には、1.5万坪ほどの日本庭園があり、これらの土地は豪州政府から日本政府に寄贈されたもので、現在、海外で唯一の日本領土となっている。受付の女性に、日本から来たと言って折り鶴を渡すと、入場料はいらないと言ってくれた。中には、当時の写真や日本の美術品などを展示した文化センターと、池を囲んだ素晴らしい回遊式庭園があった。毎年9月、沿道の桜並木の咲く頃に、慰霊祭と桜祭りが行われ、旧日本兵も招かれているそうな。豪州政府のはからいに感謝しつつ、こんな所にこんな話があるということを多くの人に伝えなければならないと思った。

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