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エッセイ・コラム

「第九」と板東ドイツ館

平尾 富男

 今から10年前、四国の鳴門市に「ドイツ館」があるというので、場違いな思いを抱きながらも大いに興味をそそられた。

 そこは四国八十八ヵ所巡りの一番札所「霊山寺」と第二番札所「極楽寺」の近くにあった。レンガ敷きの広い前庭を擁した立派な近代建築の「ドイツ館」は、静かな田園の中に忽然と現れた。近くには右手を高く挙げて指揮をしているベートーベン像が、雑木の小山を背景に建っていた。週日の開館直後だったせいか、来場者は他に誰もおらず、ひなびた場所に似つかわしくないような広々とした清潔で明るい館内をゆっくりと見学することができた。

 なぜここに「ドイツ」なのかと訝しがっていた疑問は、「そもそも第一次世界大戦時、鳴門には板東ドイツ人俘虜収容所というのがあった」という説明を聞かされて納得した。第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送った。このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が1917年からおよそ3年間を、当時の鳴門市板野郡板東町にあった板東俘虜収容所で過ごすことになった。「板東ドイツ館」の名前の由来である。

 館内で閲覧した記録によると、当時の所長は松江豊寿という人で、「彼らもお国のために戦ったのだから」が口癖だったという。 この収容所は、幕末に官軍と戦って敗れた会津藩出身で、敗者への思いやりにあふれていた所長の人柄と信念が反映されていた。ドイツ人俘虜たちにも比較的自由な生活が許され、彼らを「ドイツさん」と呼ぶ地元の人々との日常的な交歓と文化的交流も頻繁に行われていた。
 しかも所内には、80軒余りの商店街、レストラン、図書館、音楽堂、印刷所、公園などの施設が造られていただけでなく、いわゆる健康保険組合や郵便局などの互助的活動も行われていたというから驚きである。俘虜たちの進んだ西洋の技術や文化を、地域の人たちも積極的に受け入れた。その一つが音楽活動で、収容所内で彼らが行ったコンサートの演奏曲目が、 ベートーベンの「第九」交響曲、本邦初演(1918年、大正7年)であったのだ。「ドイツ館」の庭内に建てられたベートーベン像の存在理由にも納得した次第。

「ドイツ館」が最初に建設されたのは、1972年のことで、往時のドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を広く世間に知らしめるために、主として元俘虜たちから寄贈された資料を基に建設された。これを機に2年後にはドイツのリューネブルグ市と鳴門市が姉妹都市となり、以後両市による親善訪問団の派遣と国際交流が活発になった。そして、「旧ドイツ館」建設後20年を経て施設の老朽化や増えた収集資料の保管・閲覧の必要性に迫られたので、新ドイツ館の建設が計画され、1993年に現在の地に「鳴門市ドイツ館」として新築移転されたのである。

 この「ドイツ館」を訪ねて考えさせられたこたがある。第二次世界大戦の際の日本人捕虜に対する、当時のソ連軍による非道な強制労働や虐待は言うまでもないが、二つの大戦の戦中・終戦時の捕虜の扱いには大きな差が歴然としていることだ。さらには、数年前に起こったアメリカ軍によるイラク人捕虜に対する虐待事件を考えるにつけ、戦争という異常な状況の中とはいえ、人間性に関しては果たして進歩しているのか大いに疑問が残る。現代人の極端な個人主義に関係しているのであろうか。

 ベートーベンの「第九」が日本で最初に演奏されたのが、第一次世界大戦のドイツ人俘虜によってであったことを知って驚いたが、今日の日本で年末に「第九」が演奏されるようになった発端について後に学んで更に驚き、深い思いに沈んだ。  ことの起こりは、第二次世界大戦の状況が悪化する中で行われた出陣学徒壮行の音楽会。法文系学生で満20歳に達した者へも徴兵令が発せられ、入営期限を間近に控えた昭和18年の暮れに行われた繰り上げ卒業式の音楽会が、東京音楽大学(現東京芸術大学音楽部)の奏楽堂で開かれた。そのときの演目が「第九」の第四楽章であったというのだ。ドイツは日本の同盟国であったからこの曲が選ばれたのか、それとも学生たちが勝利して帰ってこられることを「喜びの歌」に込めたのであろうか。

 出征して行った多くの若者が犠牲となった後に、太平洋戦争が終わった。そして生還した者たちの中から、「奏楽堂の別れの際に演奏した第九を再び」という声が上がったのだ。つまり「年末の第九」の出発は、戦場に散った若き音楽学徒へのレクイエムだった。

 ベートーベンの交響曲第九番が、日本人にとって二つの世界大戦に関わっていたことを知って感無量となった。草葉の陰でベートーベンは何を思っているであろう。

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