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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(七)…虫少年の誕生

阿部 典文

 私の少年時代、夏休みの宿題にセミやトンボの標本を作る子供が多かった。「遊び」の種類が少なく、昆虫採集は男の子にとって格好の遊びであったから。
 私もその例にもれず、国民学校三年生の頃には子供なりに立派な「虫少年」に成長し、仲間から一目を置かれるようになっていた。

 その頃東京・練馬の石神井池湖畔に、セミの碩学・加藤正世博士が個人的に開設した博物館が開放されていた。
 春の遠足であったと思う。この博物館を訪問する機会に恵まれ、館内の一隅で接した色鮮やかな蝶の標本を眼にし、興味の焦点が蝶へと急転回してしまった。

 蝶の魅力に開眼した少年にとって、太平洋戦争の進展に伴う物資不足は大きな障害として立ちはだかってきた。トンボやセミの捕獲には、魚掬いと兼用の網とモチ竿があれば十分であったが、蝶の採集には所謂七つ道具…ネットや繋ぎ竿・三角紙や展翅板等などが必要で、特にネットは傷つき易い翅保護の為薄くて柔らかい絹製が求められた。
 このような道具を販売する専門店は戦局の悪化で休業。このため網は蚊帳の端切れ・三角紙は本の表紙を包むセロハン紙・展翅板は桐の菓子折り箱を分解するなど一応の道具を揃えて夏休みを迎えた。

 当時の我が家付近には千川用水が流れ、畑も多く、緑豊かな昆虫採集の場が展開されていた。
 特に家周辺の雑木林は格好の採集地であり、カブト虫と樹液を分かち合う「タテハチョウ」や、野菜畑に集う「モンシロチョウ」などが蝶採り事始の蒐集品となった。しかし高速で飛翔するアゲハ蝶などは道具の不備と捕獲技量不足の子供にとっては高嶺の花であった。

 このようにして「蝶キチガイ」予備軍に転向する第一歩を踏み出したが、翌年の夏には疎開で東京を離れ、以後蝶との関係は途絶えてしまった。

 しかし蝶への関心は、蝶の宝庫であるシンガポール勤務により甦った。そして密林で採集された蝶は標本箱に収まり、展翅された蝶は「虫少年」の辿った軌跡を無言に語りかけてくれる。

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