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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(三) 東京初空襲

阿部 典文

 昭和十七年四月十八日正午ごろ、耳をつんざく様なサイレンが突然鳴り響いた。その時私は校庭で遊んでいたが、「サイレンが何を意味するか」理解は出来なかった。
 しかし先生から 「敵の飛行機が来襲して来るので直ぐ家に帰れ」と命令され、家路に向かう途中パンパンという高射砲の炸裂音を耳にして青空を見上げると、銀色に輝く飛行機の姿が眼にとまった。

 翌日の新聞には「帝都に敵機来襲九機を撃墜、わが損害軽微」との記事が簡単に報道されていた。しかし実際は、来襲した米空軍機は総数一六機(内二機が名古屋,一機が神戸攻撃)総ては支那大陸方面に逃走し、一方日本側は死者八二名(内一名は国民学校児童)・負傷者四二九名の被害を受けたが、その事実はほとんど報道されなかった。

 そして学校に対し、「空襲に備え、防空頭巾には学校名・氏名・血液型などが記入された名札を着けること。備蓄されていた砂や防火用水は、子供の遊びに使われ用を足さなかったので、今後責任を持たせて管理させること」等、空爆による教訓を生かすよう注意が喚起された。

 そこで直ちに四散した砂は公園の所定の場所に集められ、防火用水に飼育されていた子供達の宝物 「ザリガニやメダカ」 は、水草と共に永久追放されてしまった。加えて頭巾を着用しての防空演習が以後繰り返して行われ、子供達にも戦時色が重く覆い被さってきた。

 この空襲は、航空母艦からは発進不可能と考えられていた双発の長距離爆撃機による攻撃であった。加えて日本本土へ接近中の米国艦隊は、その日の朝、北緯36度・東経152度付近で洋上監視船に発見され第一報が打電されていたにも拘らず、当時の艦載機の航続距離から判断して空襲は翌朝になると予測し、その油断の隙を突かれての空襲であった。その為邀撃体制も不十分で、加えて敵機は超低空飛行で侵入してきた為索敵の網目からも逃れ、実際には一機も撃墜されず、来襲した米軍機は大陸内の連合国側の基地に逃れ去っていた。

 この忘れ得ぬ光景が二年後には東京の常態になるとは、少年にとつて想像もつかなかった出来事であった。

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